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史跡

印刷用ページを表示する更新日:2018年4月1日更新

▼ 国指定

吉川氏城館跡(駿河丸城跡)

吉川氏城館跡(小倉山城跡)

吉川氏城館跡(日山城跡)

吉川氏城館跡(西禅寺跡)

吉川氏城館跡(吉川元春館跡)

吉川氏城館跡(万徳院跡)

吉川氏城館跡(洞仙寺跡)

吉川氏城館跡(常仙寺跡)

吉川氏城館跡(松本屋敷跡)

▼ 県指定

横路遺跡

寺原・与谷・猿喰城跡

今田氏城館跡

歳ノ神墳墓群

中出勝負峠墳墓群

壬生西谷遺跡

中世製鉄遺跡群(槇ヶ原製鉄遺跡)

中世製鉄遺跡群(矢栗製鉄遺跡)

中世製鉄遺跡群(坤束製鉄遺跡)

▼ 町指定

中国製鉄株式会社大暮工場跡地

野田山城跡

枝ノ城跡

小見谷製鉄遺跡群

鍛原製鉄遺跡

 

吉川氏城館跡(駿河丸城跡)

きっかわしじょうかんあと(するがまるじょうあと)

  鎌倉時代末期に駿河国(静岡県)から安芸(あき)国大朝本庄(おおあさほんじょう)に入部した吉川氏一族のうち、総領家(そうりょうけ)である吉川経頼(つねより)の城と思われ、石見吉川氏が小倉山城(おぐらやまじょう)を本拠とした後も吉川氏一族の城として機能していたと推定される。
 神曳山(かんびきやま)から派生する標高440m、比高30mの丘陵先端部にあり、谷を隔てて西郭群(にしくるわぐん)と小規模な東郭群(ひがしくるわぐん・西郭群の出丸)からなる。東西両郭群とも北側の丘陵から掘切(ほりき)って独立させている。
 西郭群は、本丸・二の丸とその間の小郭からなる。一辺30mの三角形をなす本丸とその北西の二の丸の北面には高さ1~2mの土塁(どるい)が廻(めぐ)る。東郭群は中心の二段の郭とその周囲の小郭や堀切(ほりきり)からなる。
 城の南麓の微高地にある間所(まどころ)遺跡(「政所(まんどころ)」が訛(なま)ったものか)からは建物跡の柱穴や土師質土器(はじしつどき)などがみつかっており、屋敷跡と推測される。

指定年月日

昭和61年(1986)8月28日
追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

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吉川氏城館跡(小倉山城跡)

きっかわしじょうかんあと(おぐらやまじょうあと)

 石見(いわみ)国(島根県西部)に本拠を置いていた吉川経見(つねみ)が新庄に移り15世紀前半頃に本城とした城で、以後天文(てんぶん)14年(1545)に興経(おきつね)が日山城(ひのやまじょう)に移るまでの吉川氏の本拠城。享徳元年(1452)、経見の子の経信(つねのぶ)が西禅寺(さいぜんじ)に城の塀や矢倉の構築をするよう命じており、城の整備が続けられていたことがわかる。
 標高460m、比高80mの小倉山の山頂を中心とし、三方に延びる尾根を利用している。中央の「本丸」郭群(くるわぐん)と「二の丸」郭群、「三の丸」郭群は堀切(ほりきり)で区切られており、それぞれ独立した様相を示している。発掘調査した「本丸」郭群では、堀切・土塁(どるい)・切岸(きりぎし)などの防御(ぼうぎょ)施設、建物跡・門跡・塀跡、鍛冶炉(かじろ)、登城路(とじょうろ)等がみつかっている。
 「本丸」郭群(くるわぐん)の各郭は切岸を削って郭の面積を広げ、建物を建替えるなど、幾度も改修が行われている。また、周囲を塀で囲まれた礎石建物(そせきたてもの)や門があり、鍋(なべ)・火鉢(ひばち)などの生活用品のほか奢侈品(しゃしひん)である青磁器台(せいじきだい)などが出土しており、居住施設があったと思われる。このほか鍛冶炉(かじろ)が城内でみつかっており、1500点を越える鉄釘などの出土から、鍛冶作業を行っていたことがわかる。
 城は多くの郭が北に向かって派生しており、麓(ふもと)を通る石見国と新庄とを結ぶ交通路を抑えることを重視して築かれたものと考えられる。現在は歴史公園として公開。

【指定年月日】昭和61年(1986)8月28日
追加指定:平成9年(1997)9月2日

【公開状況】常時公開

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吉川氏城館跡(日山城跡)

きっかわしじょうかんあと(ひのやまじょうあと)

 天文(てんぶん)14年(1545)頃、吉川興経(おきつね)が新庄の小倉山(おぐらやま)から本拠を移した城で、天正(てんしょう)19年(1591)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により広家(ひろいえ)が出雲富田城(いずもとだじょう・島根県安来市)に移るまでの吉川氏の本拠城。
 毛利元就(もうりもとなり)の次男である元春(もとはる)が吉川家を相続し、天文19年(1550)に日山に入城、永禄10年(1567)頃大改修された。元春とその長男元長(もとなが)の死後、家督(かとく)を継いだ三男広家(ひろいえ)によって天正16年(1588)頃、再度改修されたものと思われる。
 城は標高705m、比高300~400mの日山の山頂を中心とし、東西700m、南北300mの範囲に本丸、二の丸、三の丸、中城(なかじょう)など計28の郭(くるわ)を配する大規模な山城である。これらの郭群は配置から、城の中央部の「山頂地区」、北側の「北地区」、東側の「中城地区」に分けられる。「山頂地区」内、城の最高所にある本丸は700平方メートルの広さで、城の中心的位置を占める。正月の恒例行事の執行(しっこう)を家臣に依頼したことが記録に残っており、城主の居住施設や政務施設が「山頂地区」内にあったものと思われる。
 「北地区」は北方面の見張りの郭群。「中城地区」は登城路の防御機能を強固にするための郭群で、工事を中断した様子が見受けられることから広家が改修したものと推定される。城内各所に石垣や石塁(せきるい)・土塁(どるい)・土橋(どばし)が多用されている。城の中腹には浄必寺跡、南西700m西南麓には火野山南麓遺跡がある。

大手 中山市の詳細はこちら

淨必寺の詳細はこちら

指定年月日

昭和61年(1986)8月28日
追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

日山城跡拡大画像

日山城縄張図拡大画像


日山城縄張図

吉川氏城館跡(西禅寺跡)

きっかわしじょうかんあと(さいぜんじあと)

 小倉山城の南西250mに位置する吉川氏の菩提寺跡(ぼだいじあと)。開山(かいざん)は吉川経兼(つねかね・経見の父)といわれ、正観院(しょうかんいん)・日頼寺(にちらいじ)・成宝院(じょうほういん)など多くの末寺を擁(よう)していたとされる。
 天文(てんぶん)11年(1542)、大内氏(おおうちし)が尼子氏(あまこし)攻撃に向った際に大内義隆(よしたか)やその家臣が寄宿した。天正(てんしょう)10年(1582)頃に住職であった周伯恵雍(しゅうはくえよう)は吉川元長(もとなが)と親交があるなど吉川氏との関係は深い。吉川氏岩国移封(いふう)後廃寺となり、現在寺跡は水田化している。西端に「西禅寺の薬師さん」と呼ばれる小堂が残る。

指定年月日

昭和61年(1986)8月28日
追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

西禅寺跡拡大画像

吉川氏城館跡(吉川元春館跡)

きっかわしじょうかんあと(きっかわもとはるやかたあと)

 天正(てんしょう)11年(1583)頃、吉川元春(もとはる)が長男元長(もとなが)に家督(かとく)を譲った後に隠居所(いんきょじょ)として建てた城跡。元長死後は三男広家(ひろいえ)夫婦の居所として機能。天正19年(1591)、本拠が出雲富田城(いずもとだじょう)へ移ると館とその周辺は元春の菩提寺である海応寺(かいおうじ)の所領となる。
 館は日山城(ひのやまじょう)の南西2.5kmに位置し、志路原川(しじはらがわ)右岸の標高370m、比高8mの河岸段丘上にある。石垣がある東側を館の正面とし、間口110m、奥行80mの規模である。発掘調査により、台所・便所・番所(ばんしょ)・廊下(ろうか)・馬小屋・湯殿などの建物跡や井戸・庭園などの施設がみつかっている。
 館の西側には元春・元長の墓所や元春の菩提寺である海応寺跡などがある。

指定年月日

昭和61年(1986)8月28日
追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

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吉川氏城館跡(万徳院跡)

きっかわしじょうかんあと(まんとくいんあと)

 天正(てんしょう)3年(1575)頃、吉川元長(もとなが)が建てた寺院。元長死後の天正17年(1589)頃、弟の広家(ひろいえ)が元長の菩提寺(ぼだいじ)として改修。慶長5年(1600)、吉川氏岩国移封(いふう)に伴い寺も岩国へ移る。
 日山城の南西麓、標高440mの山中に位置する。長さ200m程の参道の奥にある間口72m、奥行き45mの境内(けいだい)地からは、発掘調査によって本堂・霊屋(たまや)・番所(ばんしょ)・風呂屋・庫裏(くり)などの礎石建物跡(そせきたてものあと)や、庭園・水道施設、法華経版木(ほけきょうはんぎ)・竹製(たけせい)の裏目物差(うらめものさし)などがみつかっている。
 このほかに境内内には容光院(ようこういん・広家の妻)墓所、方形墳墓、建物跡(西側遺構群)、境内南にも建物跡(南側遺構群)などがみられ、塔頭(たっちゅう)があった思われる。

指定年月日

昭和61年(1986)8月28日
追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

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吉川氏城館跡(洞仙寺跡)

きっかわしじょうかんあと(とうせんじあと)

  小倉山城跡北東1.5kmの山中にある吉川氏の菩提寺(ぼだいじ)跡。「仏徳庵(ぶっとくあん)」などの塔頭(たっちゅう)が建っていたとされる。吉川経基(つねもと)が永正(えいしょう)14年(1517)、祖父経信(つねのぶ)の位牌(いはい)を建立するため洞仙寺に寺領を寄進している。現在は荒地となっているが、一部石組基壇(いしぐみきだん)や墓石が残る。

指定年月日

追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

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吉川氏城館跡(常仙寺跡)

きっかわしじょうかんあと(じょうせんじあと)

  日山城東麓、城の登城口にある吉川興経(おきつね)の菩提寺跡。興経は親(しん)毛利派の家臣のクーデターにより、深川(ふかわ・現広島市安佐北区)に隠居させられ、天文(てんぶん)19年(1550)子の千法師(せんほうし)とともに殺害される。興経の命日には吉川元長(もとなが)が参拝し供養していた記録が残る。
 文政10年(1827)、岩国吉川家により参道(さんどう)が新設され、明治36年(1903)の改修により現状に至る。

指定年月日

追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

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吉川氏城館跡(松本屋敷跡)

きっかわしじょうかんあと(まつもとやしきあと)

  日山城の南西麓3km、吉川元春館跡の北東約200mにある館跡。天正(てんしょう)8年(1580)頃、吉川元春の妻が住んでいたとされる。正面80m、奥行30mの石垣で囲まれた範囲で、中央に幅6mの門跡がある。石垣には吉川元春館跡や万徳院跡と同じ技法がみられる。

指定年月日

追加指定:平成9年(1997)9月2日

公開状況

常時公開

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横路遺跡

よころいせき

 横路遺跡は江の川を臨む河岸段丘上に位置する。昭和56年(1981)に行われた発掘調査によって弥生時代前期(約2,300~2,100年前)の袋状竪穴土壙(穀物貯蔵穴)群や竪穴住居跡等が検出され、中国山地で最も早く農耕生活を営んだ遺跡の一つであることが判明した。弥生時代前期の石器工房(工作)跡では、チャートやメノウを原石に用いており、県内でも類例が少なく特筆される。出土遺物には弥生時代前期の土器(壷・甕)・石器等があるが、木葉の文様を描いた壷形土器は中国山地では出土例の少ない貴重なものである。

指定年月日

昭和57年(1982)10月14日

公開状況

常時公開(遺跡は埋め戻しされている)

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寺原・与谷・猿喰城跡

てらばら・よたに・さるばみじょうあと

 南北朝の争乱に当って毛利貞親(さだちか)(安芸吉田庄地頭として入封した毛利時親の子)・親衡(ちかひら)父子は、南朝方について忠勤を尽した。ことに親衡は足利直冬や征西将軍懐良(かねなが)親王と気派を通じ、吉田庄を中心に気勢をあげた。
 寺原城跡は興国2年(1341)及び正平22年(1367)に親衡が拠った所で、大朝庄の地頭吉川実経(きっかわさねつね)らに攻略された。
 与谷城も親衡が観応元年(1350)と正平22年(1367)に拠った城で、最後に吉川実経に攻略されている。
 猿喰城は観応元年(1350)親衡に呼応した山県為継(やまがたためつぐ)・壬生道忠(みぶみちただ)の本拠で、安芸国の守護武田氏信(たけだうじのぶ)によって攻略された。

指定年月日

昭和18年(1943)3月26日

公開状況

常時公開

寺原城跡拡大画像

寺原城跡

与谷城跡拡大画像

与谷城跡

猿喰城跡拡大画像

猿喰城跡

今田氏城館跡

いまだしじょうかんあと

 この城館跡は室町・戦国時代(15~16世紀)に今田氏が拠った北広島町今田の谷の最奥部に位置する城館遺構である。城郭は今田の谷の最奥部南側に今田川を臨む標高461m(比高110m)の最高所から南東側に延びる尾根を加工している。1~4の郭のほか、若干の土塁跡と井戸・虎口と竪堀が見られる。この城跡からは盆地全体を眺望でき、壬生城・有田城とは指呼の距離にある。さらに北には寺原城・日山城らも遠望できる。このことは、今田城がこの谷を本領域とする今田氏の支配拠点としてのみならず、この地域の在地領主と結束し、在地の支配秩序を維持していくうえにきわめて適した場所を選んで構えられていたことを示している。
 館跡の石垣の築法は、吉川元春居館跡のそれに類似している。館跡の左奥には築山・池・水路をもつ庭園跡が残っている。現在、城館跡全体は松雑木林・水田として良好に保存されている。

指定年月日

平成元年(1989)11月20日

公開状況

常時公開

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歳ノ神墳墓群

さいのかみふんぼぐん

 江の川上流を望む標高286~305mの低丘陵尾根の緩傾斜面に位置し、東尾根の弥生時代後期(1~3世紀)の墳墓5・西尾根の弥生時代後期の墳墓1・住居跡7からなっている。昭和59年(1984)、県営千代田地区工業団地造成工事に係わる事前調査で発掘調査が行われ、このうち東尾根の2・3・4号墓は調査後埋め戻して保存された。
 歳ノ神墳墓群は弥生時代後期の墳墓群で、低い長方形の墳丘をもち、その四辺を列石と貼石で区画した墳丘墓(四隅突出型墳墓、3・4号墓)、溝で墓域を区画した墳墓(2号墓)、墓域区画施設の無い墳墓(4号墓南部・西部)の3種が認められ、当時の集団構成員のなかに、埋葬される施設・場所の異なる階層分化が進行していたことを窺わせる資料である。また、本遺跡の四隅突出型墳墓は安芸地方唯一の例であり、現在のところ分布の西限にあたっている。

指定年月日

平成3年(1991)4月22日

公開状況

常時公開(遺跡は埋め戻しされている)

歳ノ神墳墓群拡大画像

中出勝負峠墳墓群

なかいでしょうぶだおふんぼぐん

 中国自動車道「千代田I.C」の南、江の川支流志路原川と冠川の合流点を見下ろす、標高305~320m南西に延びる低丘陵尾根上にあり、弥生時代(約2,300~1,700年前)台状墓2・古墳7からなっている。このうち最も低いところにある第1号古墳・第2・3号墓が保存された。
 本墳墓群のうち第1号古墳の小型竪穴式石室は、末期の退化形式でかつ複数埋葬という本来箱式石棺墓に時折りみられた埋葬手法を取り入れた点は、より箱式石棺に近い。時期も鉄鏃(てつぞく)の形態からみても5世紀後半~6世紀初に位置するものであり、横穴式石室の導入や須恵器の副葬が始まる直前の状況を示す良好な資料である。第2・3号墓は出土土器から見て弥生時代後期前半(1世紀頃)の時期で、地山を長方形に削り出して盛土をなし、西北の平野部から見えるところを3.6mと高くして高塚としての意識を示している。このような台状墓は特定集団墓と考えられ、首長あるいは有力構成員層の墓と推測される。

指定年月日

平成3年(1991)4月22日

公開状況

常時公開(遺跡は埋め戻しされている)

中出勝負峠墳墓群拡大画像

壬生西谷遺跡

みぶにしたにいせき

 本遺跡は弥生時代後期後半(3世紀頃)の34基以上からなる集団墓地で、昭和63年(1988)に千代田町運動公園(現千代田運動公園)建設に伴い発掘調査されたものである。墳墓群は5群に分かれ、箱式石棺墓をはじめ多様な埋葬施設で構成されており、中国の後漢鏡などが出土している。この時期の墓制や首長墓・副葬品が明らかになる貴重な遺跡である。

指定年月日

平成6年(1994)2月28日

公開状況

常時公開(遺跡は埋め戻しされている)

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中世製鉄遺跡群(槙ケ原製鉄遺跡)

ちゅうせいせいてついせきぐん(まきがはらせいてついせき)

 山県郡北広島町では、鉄滓(てっさい)等の散布状況などから約200か所の製鉄遺跡が確認されており、その多くは豊平町の南半部の太田川水系である。このうち大矢製鉄遺跡・矢栗製鉄遺跡・若林製鉄遺跡・坤束(こんぞく)製鉄遺跡・槇ヶ原製鉄遺跡について発掘調査が行われ、いずれも中世の製鉄遺跡であることが判明している。
 このうち槇ヶ原製鉄遺跡・坤束製鉄遺跡と矢栗製鉄遺跡の3遺跡が県史跡に指定されている。3遺跡は製鉄炉の地下構造がそれぞれ異なり、炉の大型化に対応して地下施設が次第に深く大型化して近世たたらへ変遷するケースと、その一方で近世たたらへつながらない技術があったことがうかがえ、製鉄史・産業史を解明する上で重要な遺跡である。

槙ケ原製鉄遺跡

  • 北広島町の今吉田地区は瀬戸内海に注ぐ太田川の支流の最上流域に当たり、本遺跡は山の西側斜面の中腹に位置する。
  • 平成8年(1996)に(財)広島県埋蔵文化財調査センターによって発掘調査が行われた。
  • 遺跡は山の斜面を削り出して南北14m・東西8mの作業場を造りだしており、そこから製鉄炉・鞴座(ふいござ)・砂鉄置場・鍛冶炉・炭窯が検出された。時期は遺構の構造や地磁気年代測定等により、13世紀中ごろと推定されている。

※鞴座(ふいござ)…火をおこすための送風器(鞴)を置く場所

指定年月日

平成9年(1997)9月25日

公開状況

常時公開(遺跡は埋め戻しされている)

槙ケ原製鉄遺跡拡大画像

中世製鉄遺跡群(矢栗製鉄遺跡)

ちゅうせいせいてついせきぐん(やぐりせいてついせき)

矢栗製鉄遺跡

指定年月日

平成9年(1997)9月25日

公開状況

常時公開(遺跡は埋め戻しされている)

矢栗製鉄遺跡拡大画像

中世製鉄遺跡群(坤束製鉄遺跡)

ちゅうせいせいてついせきぐん(こんぞくせいてついせき)

坤束製鉄遺跡

  • 北広島町の阿坂地区は瀬戸内海に注ぐ太田川の支流の最上流域に当たり、本遺跡は山の東側斜面の中腹に位置する。
  • 平成7年(1995)に保存整備を目的に、旧豊平町教育委員会・広島大学文学部により発掘調査が行われた。
  • 遺跡は山の斜面を削り出して南北20m・東西8mの作業場を造りだしており、そこから製鉄炉・鞴座(ふいござ)・砂鉄置場・炭窯等が検出された。時期は遺構の構造や地磁気年代測定等により、13~14世紀ごろと推定されている。

※鞴座(ふいござ)…火をおこすための送風器(鞴)を置く場所

指定年月日

平成9年(1997)9月25日

公開状況

常時公開。道の駅「どんぐり村」そばの「鉄のふるさと公園」。案内板あり。

坤束製鉄遺跡拡大画像

中国製鉄株式会社(旧山県製鉄所)大暮工場跡地

ちゅうごくせいてつかぶしきがいしゃ(きゅうやまがたせいてつしょ)おおぐれこうじょうあとち

指定年月日

平成17年(2005)年1月17日

公開状況

常時公開

中国製鉄株式会社(旧山県製鉄所)大暮工場跡地拡大画像

野田山城跡

のだやまじょうあと

指定年月日

平成4年(1992)4月30日

公開状況

常時公開

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枝ノ城跡

えだのしろあと

指定年月日

平成4年(1992)4月30日

公開状況

常時公開

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小見谷製鉄遺跡群

こみたにせいてついせきぐん

 吉川元春館跡の南西に位置する。小見谷川(和浪川・わなみがわ)沿いに水釜迫(みずがまさこ)製鉄遺跡や大草3号製鉄遺跡などの製鉄遺跡が数多く分布している。元春館建設の際「わなみのかち(和浪の鍛冶)」を雇っており、当地域のことと推測される。

指定年月日

平成20年(2008)12月24日

公開状況

常時公開

小見谷製鉄遺跡群拡大画像

 

鍛原製鉄遺跡

かじはらせいてついせき

 鍛原製鉄遺跡は農業整備事業に伴い見つかった遺跡で、現状保存されることになった。最小限の発掘調査に留めたため遺跡の全容は明らかではない。標高670mの西向き斜面に立地する南北11m、東西8mに造成した平坦面に、製鉄炉の防湿と熱効率を上げる本床状遺構(ほんどこじょういこう)、小舟状遺構などの地下構造や西側の鞴(ふいご)の痕跡が見つかった。また、斜面下方には創業時に排出される鉄滓(てっさい)が直径10mのマウンド状に捨てられている。構造の特徴や木炭の年代測定から、15世紀後半から16世紀の操業と考えられる。
 北広島町は豊富な山砂鉄と森林資源を利用して古くから製鉄が盛んに行われており、豊平地区だけでも200箇所の製鉄遺跡が確認されており、中世においては吉川氏の重要な経済基盤となっていた。

指定年月日

平成30年(2018)1月26日

公開状況

常時公開(現在は埋戻しされている。)

鍛原製鉄遺跡拡大画像