千代田地域奧今田にある今田城に登りました。
麓には、前回に取り上げた「石つきの者共」といわれた石垣づくりの専門集団によってつくられた石垣(今田氏城館跡)がここにも見えます。

(写真提供:北広島町教育委員会)
ところで、今回、今田城を取り上げたのは、今年になって全国版のニュースなどで大きく取り上げられた豊臣秀吉がらみの発見がいくつかありました。NHK大河ドラマの影響かも知れません。
その発見された史料の中に、ここ今田城の城主の今田氏に関わるものが二つありましたので、紹介します。
この手紙は、日野山の城主吉川元春が、親類衆である、ここ今田城の城主今田経高に送った手紙です。

吉川元春から今田経高宛 天正10年(1582)6月2日付
(写真提供 :岩国徴古館)
これが大発見でした。なぜかと言いますと、これは、吉川元春が、岡山県の備中高松で、水攻めをしている羽柴秀吉と敵味方に分かれて対峙している最中に書かれた手紙です。

出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。※一部加筆
今田経高も出陣していましたが、備中高松とは少し離れた後方に陣取っていたものと思われます。
この手紙は、吉川元春から、今田経高に、緊迫する水攻めの様子を知らせたものです。
少しだけ読んでみます。
高松之儀水を仕
懸候而、下口をつき
塞き候て責申候
意味は「高松城へ水をしかけて、川下をつきふさいで攻めている」です。
また
于今者、安否之一戦
申付候ハて不叶趣ニ候
意味は「今となっては、決戦に打って出るしかない」という決意が書かれています。
この備中高松城の水攻めというのは、戦国時代の歴史では大変に有名な事件ですが、これまでは、攻めた側、つまり勝った秀吉側から書かれたものがほとんどでした。しかしこの手紙は、秀吉と敵味方に分かれて戦っていた吉川元春によって書かれたものです。おそらく秀吉の敵方の視点で書かれた水攻めの一次史料というのは、今回発見されたこの手紙が初めてだと思います。
それとこの手紙が大発見と言われる理由が、それは、ここにこの手紙が書かれた日付が書かれています。
6月2日と書かれています。
歴史好きの方でしたら、天正10年(1582)6月2日というとピンとくるかもしれません。そうです。「本能寺の変」が起きた日です。明智光秀が謀叛を起こして主君の織田信長を襲撃したあの有名な事件です。これは、まさにその日に書かれた手紙なのです。
もちろん、当時の情報のスピードからして、この日に吉川元春が「本能寺の変」を知ることはありません。知ったのは何日か後のことです。
一方の秀吉の方は、元春よりも少し早く「本能寺の変」が起きたことを知りました。そして毛利・吉川軍がまだ知らないことを利用して、急いで和睦の話し合いをとりまとめ、大急ぎで京都に向かって帰ります。そして京都と大阪の境にある山崎の戦いで明智光秀を破ります。
歴史に「もし」はありませんが、もしこの時に吉川元春が「本能寺の変」のことを少しでも知っていたら、その後の歴史は私たちが今日知っているものとはずいぶん違ったものになっていたと思われます。

(今田城の本丸から見る千代田の風景)
それから3年が経ち天正13年(1585)になりました。この3年間で世の中の様相は大きく変わりました。

吉川家の当主は吉川元春から子供の吉川元長に代わりました。
今田家も、今田経高から子供の今田経忠の代になります。
世の中は豊臣秀吉の天下になりました。3年前は豊臣と吉川は敵味方に分かれて戦っていましたが、豊臣の時代になり、吉川も豊臣の家臣になります。
天正13年、吉川元長は豊臣秀吉に呼び出されて大阪城に行きます。その時に今田経忠も御供して大阪に行きます。
今田経忠は別室で待っているように言われます。待っているときに酒が運ばれてきて、酒の肴(さかな)も一緒に出されました。
今回の紹介する大発見というのは、その時に今田経忠が秀吉からもらった肴についてです。

(写真提供 :岩国徴古館)
写真はその時に今田経忠の書いたメモです。おそらくこれは経忠本人が書いた直筆です。
関白様於大阪直被下御肴也 此時青毛之 御馬拝領仕也
天正十三年 十二月五日
吉川元長供之時 今田中務少輔 経忠(花押)
それで、ここに写っている「上」と書かれた小さい袋の中に、その時に秀吉から頂いた酒の肴が大切に入れて保存されていました。

(写真提供: 岩国徴古館)
ではこの中に何が入っていたかというと、これです。これは拡大した写真です。実際は縦1.2cm 幅5mmと小さなものです。これは杏子(アンズ)の実を干したものです。今でいえばカシューナッツとかアーモンドのようなもので、ビールのつまみみたいなものです。
ところで、この写真よく見てください。ところどころが金色に光っています。実は、この杏子の実には金粉が塗されていたのです。
豊臣秀吉という人は、とにかく派手好きというのか、金が大好きで、茶室も茶道具も全て金で作らせたようです。『陰徳太平記』という本の中に、この時に今田経忠が秀吉に案内されて大阪城の茶室に入ったことが書かれています。
「六(ろく)帖(じょう)敷(しき)ノ構ノ柱、天井(てんじょう)、鴨居(かもい)、敷居(しきい)ニ至ル迄、黄金(こがね)ヲ延(のべ)タル座ニ於テ、御茶ヲ賜(たま)フ、茶入、釜、茶筅(ちゃせん)、茶杓(ちゃしゃく)悉(ことごとく)~金也」
(出典:『陰徳太平記 下』1973年4月1日発行 485頁)
と、こんなふうにすべて金尽くしだったのですが、それにしても酒の肴として出された杏子の実までも金粉が塗してあったというのは、驚きです。
おそらく今田経忠もびっくりして、全部食べずに、こっそりと2、3粒、懐に忍ばせて持ち帰ったものでしょう。
それをこのメモ書きと共にその後も大事に保存されてきました。それが今年になって発見されたということです。

(ケーブルテレビの番組撮影の様子 今田城本丸)
今回は、最近発見された新史料と地元今田家の関係についてお伝えしました。皆さんも新しい史料に思いを馳せながら今田城に登ってみてください。
(1)吉川元春館跡

今回は、豊平地域の海応寺・下石周辺に残る中世の石垣巡りです。
最初は、吉川元春館跡です。ここに、全長約80mもある雄大な石垣があります。この石垣は、ここらあたり独特の石組みがしてあります。立石が等間隔に並び、立石と立石の間には、石の最も狭い面が隣合うように横積みしています。これを築いたのは、「石つき之もの共」と呼ばれた石築き専門の職人集団です。こうした石垣は吉川元春館跡周辺や千代田地域にかけてたくさんあります。
この石垣は実は、目に見えない土の中にも秘密があって、裏側も表側と同じように面を以って積上げ、間に大量のグリ石が詰められた石塁状の作りになっています。

発掘したときに写した裏側の写真
出典:『いぶき 中世のひろしま No.24石垣のひみつ』(広島県教育委員会事務局 生涯学習部文化課 中世遺跡調査研究室)平成11年7月1日発行 1頁
(2)松本屋敷跡

先ほどの吉川館跡から北西の方向に歩いて10分の所にある国史跡に指定されている「松本屋敷跡」です。これは吉川元春が奥さんのために建てた館と言われています。
先ほどの吉川元春館跡には及びませんが、それでも全長約67mもある立派なものです。
(3)土居ケ原屋敷跡

先ほどの松本屋敷から車で数分のところですが、下石の集会所近くにある石垣です。これは土居ケ原屋敷跡といわれています。
ここにも同じように「石つき之もの共」の築いた立派な石垣があります。この土居ケ原屋敷の住人はだれなのか、分かっていませんが一説によりますと、吉川家の親類衆の石氏ではないかといわれています。
こうした独特の石垣は、現在わかっているだけで町内に8ヶ所あります。

戦国期城下町「石」及び周辺の館跡一覧
出典:『史跡ハイキング 小見谷製鉄遺跡群現地解説会記録集』(北広島町教育委員会)平成30年3月発行 36頁
実は北広島町内だけでなく、宮島にも同様の石垣があり、また、広島城下堀川の普請もこの人たちが行ったことがわかっています。
今日その人たちの情報はほとんど伝わっていません。文献にはただ「石つき之もの共」と書かれているだけですが、優れた技術を持ち、要請されれば遠くにまで出かけて石垣を築いた人たちが、ここらあたりに住んでいました。そして、その人たちの作った石垣は440年たった今でもびくともせずに屹立していて、技術力の高さを伝えています。
皆さんもぜひここに来て「石つき之もの共」と呼ばれた人たちの石垣に触れてみてください。

出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。※一部加筆
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北広島町まちづくりセンター(千代田地域づくりセンター) 電話 : 0826-72-7375
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