ここは、大朝地域田原の降子(おちご)神社です。
ここらあたりには江戸時代、武田家、屋号を土居といいますが、甲斐の武田信玄の流れを汲む一族が帰農(武士から百姓身分になること)して住んでいました。
神社の下に、今はグランドゴルフ場になっている広場があります。かつてここに武田家の大きな屋敷があったようです。
出典:「大朝町史 武田土居屋敷附近要図」(大朝町教育委員会 広島県山県郡大朝町)昭和53年3月31日 379頁 ※一部加筆
では、その武田家は何で財を蓄えたかというと、製鉄です。正確に云うと大鍛冶屋です。ここらへん一帯に武田家の経営する大鍛冶屋があった場所です。今でもここら周辺からは鉄滓(てっさい)がたくさん出てきます。
武田家は、今でいえば製鉄会社の経営者ですが、ここには、鉄を作っていた職人たちが、つまり優れた日本古来の製鉄技術を代々受け継いできた鉄づくりの専門の人たちが集団生活をして働いていて、砂鉄と木炭から世界に誇れる高品質の鉄を作っていました。
ただ、たたら製鉄というと、すぐに日本刀を思い浮かべる人が多いかと思います。もちろん日本刀はたたら製鉄からできる玉鋼を使った優れた鉄製品ですし、優れた美術品ですけれども、一般庶民が必要としたのは、日本刀ではなく、鍬とか鎌とか針金とか釘とか、つまり日用品としての鉄です。
江戸時代は戦いも少ない比較的平和な時代でしたから、むしろ日用品としての鉄の方がはるかに需要が多かったようです。
さて今回は、ここから街道を越して豊平地域の志路原まで歩こうと思います。
写真は出発して10分ほどの所です。
ここらあたりが大朝地域と豊平地域の境になります。今越してきた峠を大口峠と言います。この道の傍を流れる川を大口川と言います。現在この道は県道312号です。
写真の道は平家線という林道です。今日はこの道は進みませんが、この道はこのまま進みますと船峠(新庄と志路原を結ぶ街道)に出ます。
ところで大口峠の名前の由来ですが、昔は、現在の大朝、千代田地域を「口筋」と呼んでいました。それに対して豊平地域の南側の太田川水系を「中筋」と呼んでいました。
ですから、大口峠というのは、おそらく、この峠を越すと本格的に口筋へ入るという意味があるのだろうと思います。
では次に行きます。
志路原に出て来ました。志路原の熊野新宮神社の境内に来ています。志路原は、厳島神社の荘園として、古くから開けたところです。
厳島神社というと、平家とのかかわりが深い神社ですが、この神社の裏手にある山は今でも「平家」と呼ばれています。先ほどあった道も「平家林道」と呼ばれています。何か関りがあるのかもしれません。
この土地が古くから開けた証でもあるかのように、ここには大変に大きな杉の木が何本かあります。
特に中央に見える杉は巨大で、高さが36m、木の胴回りは8mもあり、現在、県の天然記念物に指定されています。
なかなかこれだけの大木はありません。胴回りだけだともっと大きな杉もありますが、『広島県の巨樹』(滝口進著 平成9年発行)という本によりますと、一本の杉としたら広島県内で一番背の高い杉ではないかと書かれています。
皆さんもぜひ一度この杉の巨木を見にお出かけください。
この図は江戸時代の南方村の略図です。『芸藩通志』によると江戸時代の南方村は、北の本郷あたりと、南の畑・出原との二つに分かれ、その真ん中に木次村という、全く別の村が明治22年までありました。どういう理由でそうなったのかは分かりません。
南方村と木次村が別々の村であったことの名残が郵便番号に残っています。今でも、南方は畑も含めて731-1523ですが、この木次は731-1524です。
今日は、この木次から石井谷方面に歩きます。
出発して約20分、石井谷に出てきました。ここに公園があります。説明板には「石井谷憩いの森公園」「天保初期に当地を襲った豪雨により、大平山の下層部が地滑りして集落の約半分の面積が埋もれた。現在でも5~6m掘り下げると黒松葉の付いた岩石が出てくる。」と書かれています。
天保年間の洪水というと、おそらく天保7年(1836)の大雨のことかと思います。千代田町史「近世資料編下」に、当時の後有田村庄屋が書いた日記が出てきます。
「四月廿四日から六月十二日迄凡五十日之間雨勝チニ而晴天ハ只弐三日なり、(中略)左候時ハ九州辺も大水と相聞ヱ申候へハ、日本国不残雨天と相聞へ五月六月七月迚も暑サ之日無之、ひとへ物斗りニ而かたひら着クスル事稀なり
七月二日とん天夕大雨ふり、当谷より本地都合谷迄大水損也、金垣内前小槌屋前往来井手等大損也、有田村光明寺奥の谷家壱軒潰候也」
引用:「千代田町史 近世資料編(下)」(千代田町役場)平成2年8月31日発行433頁
それを読んでみますと、天保七年は春から夏にかけて雨の日が多く「四月廿四日から六月十二日迄凡五十日之間雨勝チニ而晴天ハ只弐三日なり」と書かれています。
そして「七月二日とん天夕大雨ふり、当谷[後有田]より本地都合谷迄大水損也」とあります。おそらくその時に起きた大災害でしょう。そうした災害を忘れないように、またそうした災害に負けずに立ち上がった先祖の努力を忘れないようにこの公園が作られたと書かれています。
道の反対側に行きますと、ここに小さな道しるべがあります。よく見ないと気づきません。字もほとんど消えかかっています。
読んでみますと「右 やまみち 左 かべみち」とあります。左側は今歩いて来た道で、木次から畑を通って可部に出る街道のことです。右は山道です。
おそらくここで道に迷う人が多かったのでしょう。感覚的にも、何となく可部方向はこっちの右側のような気がしますから。
そして面白いのは、この下の小さな字です。読み難いのですが、ここには「石井谷尋常小学校児童建之」と彫られています。つまりこれは小学校の子供たちが作った道しるべです。
調べてみますと明治24年から明治40年まで16年間、この近くにある石井谷八幡神社の傍に石井谷尋常小学校があったようです。
出典:「山縣郡教育誌」(広島県山県郡教育会)昭和18年3月31日発行
ここで道に迷う人が多いのでこれを彫ってここに建てたのでしょう。作らせたのは大人、あるいはもしかしたら先生かもしれません。大部分は大人が作って、子どもは少し手伝っただけかもしれません。
しかし、子供たちが旅人のために、これを完成させてここに建てたのかと思うと何かいじらしい気がしてきます。
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