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きたひろエコ・ミュージアム 平成30年11月

印刷用ページを表示する更新日:2019年1月18日更新

街道をゆく 宮本常一の足跡をたどる (芸北地域 樽床から餅ノ木)

 今回は、芸北地域の樽床(たるとこ)ダムから餅木(もちのき)までの三段峡を歩きました。出発地点にある樽床ダムの底には昭和32年まで樽床という集落がありました。

樽床集落の画像
写真 周防大島文化交流センター所蔵

 この写真は、昭和14年に民俗学者の宮本常一(写真 1907〜1981)が写した樽床の写真です。ダムに沈む前ここには72軒の家と388人の生活がありました。遠くに見える山は臥龍山です。

宮本常一氏の写真
写真 周防大島文化交流センター所蔵

ここ樽床の人たちの使っていた生活民具と、「中門造り」(ちゅうもんづくり)と呼ばれる樽床独特の形をした民家はダムの上に引き上げられ、国の重要有形文化財として大切に保存されています。

樽床から餅木までの経路
※1 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 平30中複、第25号)
※2 この複製品をさらに複製する場合は、国土地理院の長の承認が必要。

今回歩いた道は、三ツ滝・竜門・出合滝を越して安芸太田町の餅ノ木までです。赤線部分は歩いて片道30分~40分の距離です。この道は、国の特別名勝「三段峡」の一部です。一般に三段峡というと、安芸太田町の観光地と思われがちですが、三段峡の北側の一部は北広島町に属しています。今回歩いたのは、その北広島町側の三段峡です。

写真は、『三ツ滝』です。
三段峡には大小たくさんの滝がありますが、この三ツ滝は、三段峡渓谷の中でも最大の落差のある滝です。

三ツ滝の画像

 

正岡子規の弟子に河東碧梧桐(かわひがしへきごとう 1873~1936)がいます。碧梧桐は、三段峡に来て、この三ツ滝を見た時の印象を『中国の三渓流』という本の中で次のように書いています。

〔前略〕 「三ツ瀑」は、滑らかな岩床を先左折して落ち、次いで右折して數條に分れ、素絹を展べつゝ最後に二條の大瀑布となつてゐる。これに配する左右兩岸の岩石峰頭或ひは箕踞し或は屹立する均齊の姿態正に一幅の繪畫である。〔後略〕
「中国の三渓流」(河東碧梧桐 『山を水を人を』日本公論社)118頁~119頁より引用


さらに、おそらく三ツ滝を見て詠んだであろうと思われる句も残っています。

水の細り岩の床ゆふぐれつ白みてまさる
『碧梧桐全句集』(河東碧梧桐 蝸牛社)424頁より引用

「水が細くなって岩床の上を滑り落ちている。おりしも夕暮れ時で、滝の水が白く浮かび上がり、いっそう美しくなった」という意味でしょう。河東碧梧桐がここに来たのは、大正15年10月25日の夕刻のことでした。

竜門の画像

この写真は、「竜門」です。

岩が水路のようになっていて、その狭い岩と岩との間を水が激しく流れ落ちていきます。

竜門と言うのは、中国の古い言い伝えに、魚が激しい滝を登りきると龍になるといわれています。今でも、出世するための難しい関門を通り抜けることを『登竜門』と言いますが、そうした中国の古い言い伝えに因んで名付けられたものでしょう。

竜門橋の画像

渓谷に一本つり橋がかかっています。これが竜門橋です。渓谷の高いところに架かっているので、足元を見るとちょっと怖い感じがします。

先ほど紹介した、樽床の写真を撮った民俗学者の宮本常一は、昭和14年の11月に、ここを通っています。もちろん、その頃にこんな立派な橋はありません。宮本常一は、ここを通った時のことを『村里を行く』という本に、次のように書いています。

〔前略〕家の前の細道を行くと川に沿ふ。川は眼の前の山に深い谷を刻み込んで南へ流れる。この峽谷が三段である。木々の葉は既におちつくしてゐる。川は雪解の水を受けてたぎち流れる。後藤氏の言ふごとき細き一條の道が之に沿ふ。それが落葉に埋れてる。雪も所々に殘つてゐるが思つた程深くはない。空は又雪雲で暗い。私はこの峡谷の道を走るやうにして下る。所々にこはれはてた炭竈がある。この谷が名勝として世に紹介せられない以前、ここもまた炭燒が盛に行はれてゐたらしい。三つ瀧、龍門をすぎて道は左岸に渡り又右岸に渡る。〔後略〕
『村里を行く』(宮本常一著 三國書房)252頁より引用

かつてたたら製鉄が盛んだったころの名残で、ここら辺りには、壊れた炭窯がたくさんあったと宮本は書いていますが、今は見ることはできません。

二軒小屋の画像
写真 周防大島文化交流センター所蔵

これも宮本常一が撮った写真です。この写真は、餅木からもう少し先に行ったところの集落、二軒小屋ですが、おそらく餅木もこのような風景だったろうと思います。

再び、宮本常一の『村里を行く』を引用します。

〔前略〕途中でやヽ谷がひらけて、そこに餅ノ木といふ部落がある。家の外にはハサにコオラといふ簔にする草が乾してある。このあたりは冬の仕事に簔を作つて戸河内の方へ賣出す。コオラ簔は實に美しく又丈夫で輕い。どの家も皆戸をとざしてゐるが破風から煙の出てゐるものもある。多分はゐろりのほとりにまどゐしてゐるのであらう。村をはづれると又峽谷になる。〔後略〕
『村里を行く』(宮本常一著 三國書房)253頁より引用

破風(はふ)というのは、屋根上部にある三角形の煙抜きのことです。そこから煙が出ているのを見て宮本は、家族が囲炉裏の周りに集まって語り合っている様子を想像しています。 

今回歩いた道は、春・夏・秋いずれの季節もそれぞれ風情のあるいいコースです。しかも、このコースの大部分は北広島町側に属します。そのことをぜひ知ってほしいし、また実際に歩いてみられることをお勧めします。


※このページで掲載している引用部分について、原文の一部の旧字体を新字体に改めています。


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