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令和5年度 きたひろの街道をゆく

印刷用ページを表示する更新日:2023年5月15日更新

樽床 峡北館を訪れた人々

まちづくりセンターで開催されています、峡北館芳名録の写真展「樽床 峡北館を訪れた人々」について紹介します。

峡北館

今は樽床ダム(聖湖)の底に沈んでしまいましたが、かつて芸北地域八幡に樽床という集落があり、そこに『峡北館』という名前の宿屋がありました。

峡北館というのは、三段峡の北という意味です。国の特別名勝三段峡は有名な観光地でしたから、全国各地から大勢の観光客でにぎわいました。峡北館は、三段峡を訪れた人たちがゴール地点にある宿屋としてよく利用していました。

峡北館芳名録①

(現在、峡北館の芳名録は広島県立文書館が所蔵しています)

峡北館芳名禄は、峡北館を利用した人が書いたサイン帳のようなものです。大正13年から昭和32年まで、全部で35冊、5060ページもあります。中には、大変に有名な方も訪れています。今回の展示会では、そのうちの何人かのページを写真で紹介します。

峡北館芳名録②

(所蔵:広島県立文書館)

 これは今NHKで放送中の連続ドラマ『らんまん』のモデルとなっている世界的な植物学者牧野富太郎(まきのとみたろう)博士の書かれたページです。牧野博士のものは全部で四ページあります。したがって博士は、少なくとも四回以上三段峡を通って八幡まで植物採取に来られました。その度に、この峡北館で休まれたり、宿泊されたりしました。

昭和12年10月9日に博士は、三段峡で蜂に襲われました。このページには「七ところ蜂に螫(さ)されて腫れあがり、とても記念になりにけるかな」と書かれています。

峡北館芳名録③

(所蔵:広島県立文書館)

 これは、軍人ですが、後に軍艦武蔵の艦長となり、フィリピン沖で武蔵とともに沈んだ猪口敏平(いのぐちとしひら)海軍中将の書かれたページです。武蔵は大和型戦艦の2番艦として建造され、その当時世界最大級の軍艦でした。

ただ、時代はもう大型戦艦の時代ではなく、戦闘機を中心とした空中戦に変わっていました。大和も武蔵も、大きな戦果を挙げることなく、米軍戦闘機に襲撃されて多くの兵隊と共に海の底に沈んでしまいます。

猪口さんがここを訪れた昭和10年は、軍艦扶桑に乗っていた頃で、その当時扶桑の艦長だった草鹿任一(くさかじんいち)海軍中将と二人で三段峡を訪れたようです。

峡北館芳名録④

(所蔵:広島県立文書館)

 これは、吉田初三郎です。吉田は、京都出身の画家です。画家と言っても鳥瞰図画家です。鳥瞰図というのは、鳥の目になって空の上の高い所から見たらこういう風に見えるであろう、と想像して描く絵です。日本では古くからこのような鳥瞰図が好んで描かれました。

鳥瞰図は正確に描くのではなく、名所とか特徴ある建物や川や谷は大胆に書きます。それ以外の部分は省略して書きます。そのため実際に見た風景とは違います。ただこういう方法で書くことで、その場所の特徴や雰囲気が一目でわかり、位置関係も分かりやすく、絵を見るとぜひ訪れてみたくなるような特徴を持っています。吉田初三郎は、そうした描き手の名手でした。実際に三段峡を描いた作品もあります。

峡北館芳名録⑤名田富太郎

(芳名録所蔵先:広島県立文書館  肖像画所蔵先:原東生活改善センター)

これは地元の学者として著名な名田富太郎先生です。「夜もすがら 君と語れば露むすぶ 水な田の蛙 鳴きさわぐなり」と書かれています。

名田先生は、山県郡出身の教育者です。また地方史の学者として、地元の歴史を深く研究されて多くの書物を残されました。今日私たちが山県郡や北広島町の歴史を知り得ることができているのは、名田先生の永年の研究成果のおかげなのです。

先生が長く校長先生として勤められた豊平地域の元・原東小学校(現・原東生活改善センター)の講堂には、名田先生の肖像画が掲げてあります。

このように、地元だけでなく全国各地から著名な方が三段峡を訪れ、峡北館に泊まられました。峡北館芳名禄の現物は、広島県立文書館に寄贈されましたが、その全てのページの写真は北広島町の伝承館が保管しています。

この峡北館芳名録写真展『樽床 峡北館を訪れた人々』は、4月12日~5月30日まで千代田まちづくりセンターの南側ギャラリーで開催しています。

また牧野富太郎関連の展示を図書館本館と伝承館で開催していますので、そちらも併せてご覧ください。

 

マキノイズム

図書館本館

3月29日~4月20日

 

牧野富太郎と芸北

芸北民俗芸能保存伝承館

4月11日~5月7日

壬生城

「クマヒラパーク北広島」近くの駐車場に来ています。

今回は、ここから歩いて壬生城に登ります。

この壬生城の城主は、山県信春(やまがたのぶはる)という人でした。

壬生城1 壬生城2

この近くの梅ノ木というところに、「山県信春」の墓所があります。

山県信春は毛利元就によって滅ぼされました。毛利元就という人は、戦国大名の中でも一・二を争う知謀家、策略家です。この壬生城めぐる戦いでも、山県信春の叔父にあたる山県元照(やまがたもとてる)という人を寝返らせ味方につけて攻撃します。そのため壬生城は落城し、信春はこの地で自害します。

ただ、その年がはっきりしません。毛利家の文書には天文5年1536年と書かれています。後に建てられたのであろう、この石碑にも「天文5年8月18日」と彫られ、長くそのように信じられてきましたが、最近の研究ではもっと前のことではないかと言われています。

ちなみに『大朝町史』は永正17年1520年、『千代田町史』は大栄2年1522年のこととしています。

 頂上の手前附近には、赤い手すりの階段が伸びています。

壬生城3

この手すりの階段は下の谷を横切って渡るように設置してあります。この谷は、自然に出来たものではなく人工的に掘られた「堀切」とよばれるものです。堀切は敵の攻撃を防ぐためのもので、山城には必ずといっていいほど見られるものです。

壬生城4

頂上に来ました。おりしもツツジやサクラなど春爛漫の風景です。その花群の向こうに千代田地域が一望できます。写真は北の方角、つまり壬生、川西、川東方面を写しています。昔の山城はこのように周辺がよく見える場所を選んで作られました。

ところで、今、「山県」と言うと山県郡全体の広い範囲を指しますけれども、戦国時代の「山県」はもっと狭い意味で使っていました。おそらくこの城からぐるりと見渡せる範囲、あるいはもう少し広くてもせいぜい今の千代田地域くらいの広さを山県と呼んでいました。名前の由来は、この地を支配していた山県氏と関係があるのでしょう。

この山県の地を巡って、近くの武将では毛利氏や吉川氏、遠くでは大内氏や尼子氏などの戦国武将たちが争っていました。この壬生城もたびたび戦場となります。

みなさんもぜひ壬生城に登って群雄割拠していた遠い中世の時代に思いを馳せてみてください。

雲月山

今回は、芸北地域の雲月山に登ります。雲月山は「うんげつざん」とよみますが、古くは「うづつきやま」とか「うづきやま」と呼ばれていました。

雲月山の画像1

雲月山は北広島町の最北端にある山です。この山の稜線が県境になっていて、向こうは島根県です。
この山は、ご覧のように大きな木がほとんどない草原です。これはどうしてかというと、毎年この山は、春先に山焼きをするからです。(今年は悪天候で中止)
昔の農業は肥料にしたり、牛や馬の餌にしたりするために山の下草がどうしても必要でした。そのために山焼きをしました。山焼きをしないと、木が大きくなり過ぎて下草が育ちません。また枯草をそのままにしておきますと、地表近くの植物に光が射さず、新しい芽が育ちません。
またこの山は、牛の放牧などもしていたようですが、牛の餌供給、安全な管理のためにも山焼きは絶対に必要なものでした。
現在、近くで今も山焼きをしているのは、ここ雲月山と安芸太田町の深入山くらいです。

雲月山の画像2の1

雲月山の画像2の2

向こうに山に斜めの線が二本見えるのがお判りでしょうか?写真からでは分かりにくいので、矢印と線を入れてみました。あれは、人工的な水路の跡です。

雲月山の画像3

これはたたら製鉄と関係があります。たたら製鉄というのは、砂鉄と木炭から鉄を作る日本古来の製鉄技術ですが、あの水路は砂鉄を採るためです。
山を崩して、土砂を水と一緒に水路に流します。比重の違いで重い砂鉄は下に沈殿し、軽い砂や土は下流に流れていきます。そうした比重の違いを利用した砂鉄を集めるために考えられた水路です。それを鉄穴流し(かんなながし)と言います。
もっとも広島藩は早くから太田川での鉄穴流しを禁止にしていたので、あの水路は島根県側に流れていって島根県で砂鉄を集めていました。

雲月山の画像4

頂上に来ました。大きな木が無いので、360度ぐるりと見渡せる山です。
北の方向を見ますと、島根県の山、それから晴れた日には遠く日本海まで見えます。
東方面を見ますと、中野冠山、才乙スキー場のある高杉山、さらにその向こうには天狗石山が見えます。
南西の方角には、深入山、掛頭山、臥龍山、大佐山などがみえます。
この山は、麓の駐車場から30分くらいで登ることができますのでぜひ一度おいでください。

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お問い合わせ

北広島町まちづくりセンター (旧:千代田地域づくりセンター) 電話 : 050-5812-2249
大朝地域づくりセンター 
電話 : 050-5812-3025
豊平地域づくりセンター  電話 : 050-5812-4020
芸北文化ホール 電話 : 050-5812-2070