今回は、大佐山スキー場近くにある登山口から大潰山(997m)に登ってみました。この山は広島県と島根県の県境にある山です。
大潰山の「づえ」の字には、「潰(つぶ)れる」という漢字を当てます。おそらく、昔、この山は大雨か地震で大きな山津波を起こした山だろうと思います。
そしてこれもおそらくですが、その山津波は広島県側ではなく、島根県の波佐方面に流れたものでしょう。江戸時代、島根県側は砂鉄採集が盛んで、山の形が変わるほどに山を切り崩していましたからそれと関係あるのかもしれません。
引用:『西中国山地』桑原良敏
そのために、この山を昔から大潰山と呼んでいたのは島根県側の人で、地元の芸北の人はこの山を柏原山とか大平山と呼んでいました。
登り始めて約1時間で頂上に着きました。
ここからは西中国山地の山脈がよく見えます。
國郡志苅屋形村には
「此山上ヨリ、雲柏石長四ケ国之山々浦々海を見渡ス」ことが出来ると書かれています。また萩市沖の海上にある見島(三嶋)も見えると書かれています。
出典:国土地理院ウェブサイト
引用:『國郡志御用ニ付下調ベ書出帖』苅屋形村 一部抜粋
雲柏(伯)石長四ケ国というのは、出雲、石見の島根県。伯耆の鳥取県。長門の山口県のことです。それほど見晴らしが素晴らしいという意味でしょう。
元々この山は、ツツジの美しい山として人気の山です。ですからツツジの見ごろの五月ごろに登るのがベストです。
みなさんも来年のツツジの季節にぜひこの山に登ってみてください。
写真提供:北広島町観光協会 芸北支部
今回は、可部峠の頂上(写真の手前側は北広島町本地 峠の先からは広島市安佐北区可部町南原)から南原峡方面へ下りていきます。この道は、広島と島根をつなぐ石州街道です。かつて、浜田藩の参勤交代にも使用された道です。
絵:福長千紘
ところで
可部じゃ可部坂(かべじゃかべざか)
市木じゃ三坂(いちぎじゃみさか)
越木・赤谷なきゃ良かろ(こしき・あかだになきゃよかろ)
という馬子唄があります。石州街道には、難所といわれる坂が三ヶ所ありました。
島根県の越木・赤谷峠、島根県の市木から広島の大塚へ越す市木三坂峠、そして、今回越す、この可部峠です。
この可部峠は、「かべざか」とか「かべだお」ともいいます。
明治21年に広島・浜田道路が出来て飯室・鈴張を経由するようになるまでは、この道が広島城下と山県郡をつなぐ一番の主要街道でした。
この可部峠は、別名、マンサク峠とか馬糞峠と云われています。
マンサクというのは、島根県側の海で獲れるシイラという魚のことですが、ここら辺りでは名前の縁起が悪い(実の入っていない籾をシイラという)というので、逆に縁起の良い名前を付けてマンサク(豊年満作の意味)と呼びます。それに塩をたっぷりかけた塩マンサクをこの峠を越して広島方面に運んだことからそう呼ばれます。
馬糞峠というのは、馬が多く通るので、文字通り道に馬糞がたくさん落ちていたという意味でしょう。ただ、当時、馬糞は貴重な畑の肥料でもあったので、馬糞峠というのも単に「不潔な」という意味ではないかもしれません。
下り始めてから20分くらいのところに、街道の傍に大きな松の木がありました。樹齢二百年くらいでしょうか。周囲の木とは明らかに違う巨木です。
これは一里塚の松です。
ここの場所は昔の南原村ですが、本地村側にも三か所このような一里塚がありました。今は、いずれも松は枯れて、その跡に記念の石碑が建てられています。三か所の内の一か所は峠の頂上にあります。(一番上の写真参照)
ジャパンアーカイブズ「武一騒動想像図」絵:小笹瀞
この街道が歴史上一躍有名になるのは、明治4年のことです。いわゆる『武一騒動』です。
当時、千代田・大朝地域は口筋と呼ばれていましたが、明治4年(1871)8月4日に、その口筋から何千人という百姓が、この峠を越して広島市内に向けて押し出ていきました。
百姓の目的は、広島から東京へ移ろうとしていた前の広島藩主、浅野長訓の上京を止めることでした。
その数日後から燎原の火の如く、県内全域での暴動に発展し、特に庄屋や商人が襲われます。
やがて軍隊が出てきて鎮圧されるまでの一か月、この道は農民や武士、軍隊などがまさに上へ下への大騒ぎとなります。
頂上から、約40分で南原峡の上流に下りて来ました。
ここに、昔の石州街道の一部が残されています。当時、この石州街道をよく利用する村々から毎年人夫を出して修理・修繕をしていました。
使われなくなって久しいので、写真では右側の山が崩れ道幅が狭くなっていますが、当時はおそらく一間半(2.7m)くらいの道幅は確保されていたものと思われます。
この場所は北広島町ではありませんが、南原峡と呼ばれる大変に美しい渓谷です。キャンプ場もあります。
現在、千代田側からの道は通行止めですが、可部側からだと、ここまで簡単に車で来ることも出来ます。
皆さんもぜひ、石州街道を訪ねてみて下さい。
今回は、大朝地域の大塚高原口(現在地)から出発します。
ちょっとこの地図を見てください。
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
かつて広島県と島根県を結び、浜田藩の参勤交代にも使われた石州街道がこの道です。
北に進みますと、市木三坂峠を越して島根県邑南町の市木に出ます。反対の南方向は、大塚から枝之宮八幡神社の前を通り、大朝に出ます。
北に向かって歩いて5分のところに山道があります。(私の後ろに見える道)今は人が通るのもやっとの大変な道ですが、この山道が石州街道です。
さて今日は、ここからさらに東の方向に進んで、高原に行きます。
高原は、戦後、開拓団によって開かれた土地です。
昭和22年に15戸の入植者によって原野が開拓され始めました。重機の無かった時代ですから、すべて手作業でずいぶんと苦労されたようです。
当時、開拓に使用した道具が残されています。
私(右)が左手に持っているものは、「開墾鍬(かいこんぐわ)」と呼ばれるもので、先端が丸くなって土に食い込みやすくなっています。右手に持っているものは「根切鍬(ねきりぐわ)」と呼ばれるもので、柄に対して刃が縦に付いていて鉞(まさかり)のような使い方をします。
スタッフ(左)が右手に持っているものはハンマーです。15kgぐらいもある重いもので、これで左手に持つタガネを叩いて石を割る時に使用したものでしょう。
『中国山地』という中国新聞社が昭和41年から275回に渡って連載したものを一冊にまとめた本があります。
そこに、昭和22年9月、開拓団がここ高原に入植して、最初は食べるものさえ無かった時の苦労話が書かれています。
「麦ガユばかりでしたのう。食べられる草の葉や芽をつんで来てはその中に入れた。カボチャがはいっているときは上等のおカユだ。米をひいてヌカをたっぷりまぜ、粘りをつけるためにヨモギを入れたヌカダンゴがいちばん腹もてがしたな。あのころの辛苦は、いまじゃ半分もええはなさん」
引用:『中国山地 上』(中国新聞社編) 昭和42年11月30日 308頁「被爆入植者」
こうした人にも話せないほどの苦労をされ、15軒あった開拓団も一軒減り二軒減りと今では2軒だけになってしまいましたが、現在はこうした広々とした美しい農地が開けています。
この場所は、県道から少し入っていることもあり、まるで別天地のような静けさと美しさがあります。もう少しすると、桜が満開に咲いて、より美しい風景になることでしょう。
ここは私有地ですが、こうした静かな場所を楽しみに来られる人には開放しておられますので、ぜひ一度訪れてみてください。
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大朝地域づくりセンター 電話 : 0826-72-7371
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芸北文化ホール 電話 : 0826-35-0070