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令和6年度 きたひろの街道をゆく

印刷用ページを表示する更新日:2024年4月18日更新

高原

今回は、大朝地域の大塚高原口(現在地)から出発します。
ちょっとこの地図を見てください。

高原地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。

かつて広島県と島根県を結び、浜田藩の参勤交代にも使われた石州街道がこの道です。

北に進みますと、市木三坂峠を越して島根県邑南町の市木に出ます。反対の南方向は、大塚から枝之宮八幡神社の前を通り、大朝に出ます。

高原画像1

北に向かって歩いて5分のところに山道があります。(私の後ろに見える道)今は人が通るのもやっとの大変な道ですが、この山道が石州街道です。

さて今日は、ここからさらに東の方向に進んで、高原に行きます。
高原は、戦後、開拓団によって開かれた土地です。
昭和22年に15戸の入植者によって原野が開拓され始めました。重機の無かった時代ですから、すべて手作業でずいぶんと苦労されたようです。
当時、開拓に使用した道具が残されています。

高原画像2

私(右)が左手に持っているものは、「開墾鍬(かいこんぐわ)」と呼ばれるもので、先端が丸くなって土に食い込みやすくなっています。右手に持っているものは「根切鍬(ねきりぐわ)」と呼ばれるもので、柄に対して刃が縦に付いていて鉞(まさかり)のような使い方をします。
スタッフ(左)が右手に持っているものはハンマーです。15kgぐらいもある重いもので、これで左手に持つタガネを叩いて石を割る時に使用したものでしょう。

『中国山地』という中国新聞社が昭和41年から275回に渡って連載したものを一冊にまとめた本があります。
そこに、昭和22年9月、開拓団がここ高原に入植して、最初は食べるものさえ無かった時の苦労話が書かれています。

「麦ガユばかりでしたのう。食べられる草の葉や芽をつんで来てはその中に入れた。カボチャがはいっているときは上等のおカユだ。米をひいてヌカをたっぷりまぜ、粘りをつけるためにヨモギを入れたヌカダンゴがいちばん腹もてがしたな。あのころの辛苦は、いまじゃ半分もええはなさん」
引用:『中国山地 上』(中国新聞社編) 昭和42年11月30日 308頁「被爆入植者」

こうした人にも話せないほどの苦労をされ、15軒あった開拓団も一軒減り二軒減りと今では2軒だけになってしまいましたが、現在はこうした広々とした美しい農地が開けています。

高原画像3

この場所は、県道から少し入っていることもあり、まるで別天地のような静けさと美しさがあります。もう少しすると、桜が満開に咲いて、より美しい風景になることでしょう。
ここは私有地ですが、こうした静かな場所を楽しみに来られる人には開放しておられますので、ぜひ一度訪れてみてください。​

 

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