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令和4年度 きたひろの街道をゆく

印刷用ページを表示する更新日:2023年1月26日更新

今年から、北広島町が「ちゅピCOM」の仲間入りさせてもらうことになりましたので、北広島町内の観光スポットやおすすめ場所を多くの方に紹介したいと思います。

 

湯谷(ゆだに)の霊泉

加計山を紹介しようとして今回登ってみましたが、あいにくの天候で頂上からの視界が悪く止めました。ただ、加計山については前回一度紹介していますので(北広島町ホームページ、きたひろエコミュージアム街道をゆく番外編2「13回目加計山」)そちらをご覧ください。
そこで今回は、ふもとにある「湯谷の霊泉」を紹介します。

湯谷の霊泉 地図

場所は大朝地域茅原です。「かやはら」と読むのが本当かもしれませんが、一般には「かいわら」と呼ばれています。ただし、現在その場所には湯治場も建物もなく、パイプの先から水が出ているのと、そのそばに小さな社が一つ立っているだけです。

湯谷の霊泉
それでも、かつてはこの水がどんな病気や怪我にも効く霊泉としてたくさんの人が訪れていました。
この霊泉については戦国時代から知られていたという古文書もあるようですが、確かなのは、今からおよそ200年前の文政、天保年間に、難病に効く『湯谷の霊泉』として名を知られるようになり全国各地から人が訪れ、大変ににぎわっていました。
その後、衰退していきますが、昭和10年代になって再び復活します。その当時の盛況について、『あぜみち放談第一集』に半田春江さんという人の書いた「茅原湯谷の霊泉について思う事」という一文が載っていますので紹介します。

昭和11年頃に、大朝本町二丁目畑堀さんの中二階の建物を買って、湯谷お堂の下隣りに建て、かなり立派な建物で町内の方は勿論、遠方より薬湯の良く効くという事を人伝えに聞いて沢山入湯に来られ、土用の丑の日等は階上階下とも一杯で入れなくなり、戸外に筵を敷いてお湯に入る順番を待つ程繁盛したものでした。
お風呂も三つありましてふきでものなど出来た人の入る風呂、又女湯男湯を分け、板の垣をして入る様にしてありました。(以下略)

湯谷の霊泉 社

このように昭和の初めころに復活し、二階建ての建物がいっぱいになるほどの賑わいだったようですが、風呂を沸かすための薪を集めるのがだんだんと大変になって衰退して、昭和28年に建物を解体しました。
しかし、今でもここの水には特別な薬効があると信じられ、わざわざ遠くから水を汲みに来る人もおられます。
また社の前では、隔年に湯谷祭りといって地域の人がお参りしておられます。
ただし飲料にも適しているかどうかは不明です。もし、この霊水を飲まれる場合は、必ず一度煮沸してから飲んでほしいとのことです。

大渡橋

今回は、芸北地域の、北広島町と安芸太田町の町境にある畑ケ谷という所に来ています。今からこの下にあるつり橋、大渡橋まで歩いてみたいと思います。

大渡橋 地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は国土地理院発行の電子地形図(タイル)を加工したものである。

江戸時代に、広島から浜田に行くには、いくつかの道がありました。
『國郡志今吉田村』に、北広島町今吉田から石州浜田へ行く一番の近道が書かれています。
それによりますと、ここ畑ケ谷を通って石州柚根(ゆね)に抜ける道が一番近いと書かれています。

今吉田から石州浜田の近道
当然、途中で、何回か川にぶつかります。川があれば橋を渡ります。

ここ、畑ケ谷でも橋を渡りました。その橋を大渡橋と言います。
今は、新しい橋が架かっていますが、古い吊り橋があるので、今回はその古い吊り橋を紹介します。

大暮川
橋までの道の側には川が流れ、滝や淵の連なる美しい渓谷になっています。

大渡橋手前のトンネル
橋の手前にきました。ここにトンネルがありますが、このトンネルはこのように岩が露出したままです。こういうトンネルも今では大変に珍しいと思います。ではトンネルを抜けて吊り橋に行ってみます。

吊り橋に来ました。
ここから見えるつり橋はとても美しい風景です。
秋の紅葉シーズや雪が積もったころは、もっと素晴らしいものと思います。

旧大渡橋と新大渡橋
古い吊り橋と対照的に、上には赤い、新しく出来た王渡橋が見えます。
ただ、この古い方の橋は、傷みがひどく、危ないので、風景を楽しむだけにしてください。 

冬の大渡橋
   「冬の大渡橋」 提供: 芸北観光協会

大渡橋 対岸からの景色
対岸に来ました。
吊り橋の長さは70mくらいあります。
今のこの橋は、この下流に王泊ダムをつくって川幅が広くなったために、昭和30年ごろに新しく架けられたものです。おそらく江戸時代には、川も橋もこれほど大きくはなかったと思います。きっと、もっとずっと下の方に短い橋が架かっていたものと思われます。
皆さんもぜひ、この大渡橋に来てみてください。

鎧滝

鎧滝 桜広場

今回は、芸北地域の林道の側にある「桜広場」から、鎧滝に降りて行きます。
今いるこの場所について説明します。

鎧滝 地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は国土地理院発行の電子地形図(タイル)を加工したものである。

ちょっとこの地図を見てください。
現在地の「桜広場」は、国道186号線を川小田から大規模林道に入り、約5km進んだところです。このままもう少し行きますと、県道11号線と交わります。
ここから急な坂道を標高差約100m、距離にして約1km歩いて、大佐川まで下がっていきます。

鎧滝 歩道
降り始めて5分くらいの所です。林の間から鎧滝が見えてきました。滝の落ちる音があたり一面に響いています。歩道には木製の手すりが付けられていますが、傷みがひどいようでグラグラしています。

鎧滝
降り口から15分ほどで大佐川まで降りてきました。
これが鎧滝です。とても勇壮な滝です。全体の形が、鎧の銅の部分に似ているのでこの名が付けられました。水しぶきと紅葉が美しくマッチしています。
ここ何日か雨が降っていないせいでしょうか、今日はいつもよりやや水量が少ない気がしますが、ご覧のようになかなか勇壮な滝です。
しかしこの滝はこんなに立派な滝なのに、なぜかあまり人に知られていない幻と言ってもいい滝です。

この滝のある場所は芸北地域の雄鹿原。昔で云うところの橋山村です。江戸時代に書かれた『國郡志橋山村』にもすでに、「只惜ムラクハ深山幽谷ニ懸リ広島、浜田、津和野ノ城下ヲ距(へだて)ルコト遠ク、貴人、墨客ノ訪ズレルコトナキ」と、これほど立派な滝なのに、訪れる人が少ないのが残念だと書かれています。

鎧滝 100年前
出典:『芸北、カメラが語る昭和初期』芸北町教育委員会 撮影:野田不二仁

ところでこの写真を見てください。これは、今から100年ほど前にこの滝を写した写真です。その当時と比べても、水量や滝の形に変化はありません。昔のままです。
ただ、その当時は滝の下に小屋が設置してありました。おそらく、ここに集まって滝を見ながら会食したり、滝を鑑賞して句でも詠んだりしていたのでしょぅか。優雅な時代でした。

ぜひ皆さんもこの鎧滝を見にお出かけください。ただ滝に降りていく歩道に設置してある木製の手すりは危ないので、頼りにしない方がいいと思います。というか、安全のために手すりはできるだけ触らないようにしてください。

天狗石山

天狗石山 地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は国土地理院発行の電子地形図(タイル)を加工したものである。

今回は、天狗石山(1192m)に登ります。広島県と島根県と県境にある山です。かつて明治から大正にかけて、大暮に製鉄工場があったころは、この山に炭焼き職人がたくさん入って生活していました。
現在、才乙側は自然林でブナがたくさん生えています。大暮側は、植林されて杉山になっています。
この山にはいくつかの登り道があります。大きく、芸北地域の大暮側から登るか、才乙側から登るかの選択ですが、今回は、才乙にある来尾峠(きたおとうげ)から登りました。
10月28日 金曜日には、このコースで、『きたひろDeep』も実施しました。

天狗石山 尾根景色
このコースでは、最初の登り口の坂道がちょっときついのですが、そこを過ぎると比較的なだらかな登り道が続きます。尾根からは、才乙の集落がよく見えます。左の山がサイオトスキー場のある高杉山、右の山は中野冠山です。

天狗石山 岩
頂上付近には、写真のような大きな岩がいくつか並んでいます。
「天狗」というのは、「天狗石」とか「天狗シデ」とか「天狗滝」とか、修飾語としてよく使われます。ちょっと普通ではない、少し変わっているという意味で使われることが多いようです。この山がなぜ「天狗石」と呼ばれるのか知りませんが、この山の頂上付近にある、こうした大きな岩が名前の由来かもしれません。

天狗石山 頂上
頂上に来ました。頂上の岩はあまり広くありませんが、傍に展望台もあります。
ここに立ちますと、島根県側の山がよく見えます。右の方奥に見えるのが三瓶山です。
下山は、しばらく今来た道を引き返し、途中からルートを変えて、スキー場の方へ下りてみます。では出発します。

天狗石山 祠
天狗石山とスキー場のある高杉山との分岐点近くに、祠があります。「こんな山奥深い所に?なぜ?」と、ちょっと驚くような場所です。これは乳母御前神社(うばごぜんじんじゃ)と呼ばれています。
1185年の源平合戦の時、平家は壇ノ浦で滅びます。まだ幼かった安徳天皇は、二位の尼に抱かれて入水(じゅすい)して亡くなったと言われていますが、実は生き延びたという伝説は全国各地、特に西日本の山奥にはたくさん残っています。
ここもその一つでして、この場所に二位の尼が機織りをしながらひっそりと生活していたと言われているところです。機を織る時「杼(ひ)」とか「梭(さい)」と呼ばれるものを左右に動かすのですが、その音が里の方まで聞こえたので、サイの音、サイオトという地名になったという言い伝えまであります。
このまま下りていきますとサイオトスキー場に出ます。皆さんもぜひ、天狗石山に登って、帰りはこの乳母御前神社を訪れてみてください。​

嶽(だけ)

やわたハイランド191リゾート

今回は、芸北地域の八幡にあるスキー場、「やわたハイランド191リゾート」を登ります。
スキー場の許可をもらいましたので、ゲレンデを歩いて、リフトの最後まで登ってみたいと思います。

嶽 頂上景色

ようやくリフト降り場まで来ました。歩いて約30分かかりました。今いるここの標高は、960mくらいですが、登り始めたところの標高が、770mですから、実際に昇るのは200mほどです。
このスキー場のある山は、「嶽(だけ)」という漢字一文字の山です。実は、この嶽の頂上は、もう少し先に標高989mの頂があるのですが、今日はここまでにします。
登山道はありませんが、スキー場のゲレンデなので大きな木も無く、大変に登りやすい山です。
ここから見ますと、八幡地域、それから西中国山地の山脈がよく見えます。谷がV字状に広がっています。左側の谷が八幡の中心地、右側が千町原方向です。東の方向(写真右)に見える山は、前回紹介した掛頭山です。

嶽 頂上景色 昭和初期

ところで、この写真を見てください。これは、昭和初期に、この嶽から撮られた写真です。
今回撮影した写真とほぼ同じ風景が見えますが、今は、周囲の木が大きくなっていて山の麓の辺りは見えません。
古い方の写真の麓を見ますと、いくつか細長い建物がたくさん並んで写っているのがお判りでしょう(赤丸の中)。実は、これは、かつてここに陸軍の兵舎と馬の厩舎があった、その建物群の跡です。
下の図は、当時の兵舎と厩舎の配置図です。(『八幡村史』より)

兵舎と厩舎の配置図

古い写真は、赤い矢印の方向から兵舎・厩舎(赤丸の建物)を写したものです。
実は、ここ八幡には戦時中、陸軍の演習地がありました。今見える風景の大部分が全て陸軍に買収されて取り上げられ、人々は、中心部(左側の谷)に集められて生活していました。そのため、その当時は、日々の生活空間の頭上を、砲弾が飛んでいたといいます。
下の写真は、当時兵舎で使用されていた食器です。陸軍の星のマークがついているのがお判りでしょうか。手に持つとずっしりとした重さがあります。

兵舎で使用されていた食器

ここ八幡にはそういう戦争との深い関わりがありましたが、だんだんと記憶も傷跡も風化しつつあります。また、今見えるこののどかな風景からは当時の緊迫感を想像することは出来ません。
皆さんもぜひここに来てほしいのですが、ここは夏場に登るのには、スキー場の許可が必要です。それよりも、ぜひ冬にスキーやスノボーに来られてリフトで登って見られることをお勧めします。​

掛頭山

掛頭山 地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は国土地理院発行の電子地形図(タイル)を加工したものである。

今回は、八幡にあった二川(ふたごう)キャンプ場から、雄鹿原と八幡にまたがる掛頭山、標高1126mに登ります。
この山には登山路もあるのですが、車で登ることもできます。今回は、距離は長いのですが歩きやすい車道を登ることにしま。。

縦走コース分岐点付近
     縦走コース分岐点付近で
歩き始めて約1時間、尾根に出ました。ここは、北広島町の最高峰、臥竜山1223mへの縦走路の分岐点です。南西側に臥竜山、北東側は掛頭山です。ここから掛頭山の頂上めざして出発します。赤丸の中に分岐点を示す立て看板のあるのがお判りでしょうか。

ようやく頂上に来ました。キャンプ場から約5キロ、1時間30分ほどかかりました。
ここから見ると、遠くに西中国山地の山脈がよく見えます。
掛頭山 南側
南側には、左から深入山、十方山、臥竜山です。

掛頭山 北側
反対の北側は、左から、天狗石山、西同形(ドーゲン)山、阿佐山、毛無山、畳山が見えます。眼下に見える里は雄鹿原です。

掛頭山 頂上付近
頂上付近にはリフト降り場の跡も見えます。ここは、かつての芸北国際スキー場のおーひらコースです。おーひらコースは上級者向けのゲレンデとして人気でした。ここから下を見ますと、かなりの急勾配です。
ここは、昔は放牧場でした。またその後はスキー場ができたため、あまり背の高い植物は生えていません。ここには辺り一面カシワの木が群生しています。ここの群生地は町の天然記念物に指定されています。

雲海
提供:芸北観光協会
また雲海がよく見える撮影スポットとしても有名で、秋の終わりから初冬にかけて、晴れの日の朝早くに見えます。それを狙って多くのカメラマンが朝早くから訪れます。
先ほども言いましたが、ここは歩いて登ってもいいのですが、頂上まで車で簡単に来ることもできますので、ぜひ一度お出かけください。

峡北館の芳名録

芳名録
今回は、歩くのではなく、町内の、ある旅館に残された芳名禄について紹介します。それがこれです。全部で35冊、約5000ページあります。

峡北館
これが何かといいますと、今では聖湖のダムの底に沈んだ樽床に、峡北館と云う旅館がありました。後藤さんと云う家で、屋号を院居と言います。
その頃は、交通事情が悪い時ですから、旅をする人たちにとって、宿泊する場所は必ず必要でした。そのためどこの村でも一軒や二軒の旅館はありました。峡北館もそうした宿屋の一つでした。
これは、その峡北館の芳名禄です。芳名録は、泊り客が、旅の記念に、思い出などを自由に書いたものです。また著名な方が泊まられた時は、宿の方から差し出して書いてもらったものです。サイン帳のようなものです。
峡北館の芳名禄は、大正13年からダムに沈む昭和32年までの34年間のものが揃っています。
これを見ますと、その当時は、実にたくさんの人たちが三段峡を訪れていたことが分かります。
当時の三段峡は、それくらい有名な景勝地でした。その三段峡の終点にあったのがここ峡北館でした。峡北館の峡北というのは、三段「峡」の「北」という意味です。
このノートをみますと、県内はもとより、関西、関東、北陸と全国から、また遠くは台湾や朝鮮半島、満州からも旅人が訪れています。
その中には、大変に著名な方も含まれています。
いくつか紹介します。

芳名録 河東碧梧桐
1.これは、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)です。
河東碧梧桐は俳人、つまり俳句を作る人です。有名な正岡子規の高弟です。碧梧桐は、三段峡に二度来ています。碧梧桐は、渓谷が好きで、全国の渓谷を旅して、頼まれれば、訪れた渓谷の先々で俳句を作りました。ただ碧梧桐は、三段峡では、俳句を作らなかったと言われています。
しかし、ここに、大正15年と書かれています。
私は、碧梧桐の全句集を読み返してみました。その中に、「大正15年 広島にて」の添え書きと共に
水の細り 岩の床 ゆふぐれつ 白みてまさる
という俳句があるのを見つけました。
この句は、いろいろな状況証拠から、河東碧梧桐が最初に来た大正15年10月24日に、三つ滝を詠んだ句ではないかと思っています。

芳名録 児玉希望
2.またここには、安芸高田市高宮町出身の児玉希望(こだまきぼう)の名前があります。児玉希望は、日本を代表する大変に有名な日本画家です。
ここに書かれてあるのは、モミジイチゴの絵だろうと思います。

芳名録 丸木位里
3.それから、ここには、後に「原爆の図」で世界的に有名になる丸木位里(まるきいり)の名前もあります。丸木位里は、安佐郡飯室の出身です。これは大正15年ですから、まだ原爆の落ちる20年前のこと。丸木位里は飯室村の人たちと一緒に、何度も三段峡を訪れていたようです。

滝 丸木位里
これは広島市安佐北区の安佐公民館のロビーに飾ってある、丸木位里の描いた「滝」という水墨画です。これは三段峡の滝を描いたものと言われています。

芳名録 牧野富太郎
4.それから世界的な植物学者として有名な牧野富太郎博士は、三段峡と八幡高原を何度も訪れています。この芳名禄の中に、四ページもあります。
博士は、昭和8年6月4日に八幡でおりしも満開に咲いていたカキツバタに感激されるのですが、これはその前日の6月3日に、峡北館で書かれたものです。
「白雲木乃落花山路に布きしを見て 白い雲を地面に落す大葉ちしゃ 注に曰く 白雲木の一名を大葉ちしゃといふ 昭和八年六月三日 牧野結網」と書かれています。「結網」というのは、牧野富太郎の雅号です。
その他にも、その当時の大映画スターだった、大河内伝次郎や坂東妻三郎、伏見直江、高田幸吉。歴史学者として有名な井上清。オペラ歌手として有名な藤原義江など、著名な学者、軍人、作家、音楽家、経済人がたくさん訪れています。
この芳名禄は、後藤家に大切に保存されていましたが、この度、後藤家から、広島県立文書館に寄贈されることになりました。
しかし、峡北館は北広島町にあった旅館ですし、かつて山県郡三段峡が日本を代表する景勝地であったことを示すものであるので、文書館に寄贈される前に、しばらくお借りして、全てのページを写真撮影しました。
いずれまちづくりセンターで、撮影したページの一部を展示してみたいと思っています。

三つ滝・竜門

三つ滝・竜門 入り口

私は今、北広島町八幡にある樽床ダムの堰堤のすぐ側にある駐車場に来ています。
さて、今回は、この駐車場の端から下に降りていく道がありますが、そこを下って三つ滝。龍門に行きます。
約15分降りてきました。滝の見える場所に来ました。
これが三つ滝です。
ここら辺り一帯は、西中国山地国定公園になります。また国の特別名勝三段峡の一部です。
ここは、秋の紅葉のシーズンが一番美しい季節と思いますが、春の新緑の頃も美しく、また夏の避暑にも適した場所です。

竜門1 竜22
       三つ滝               竜門
ここからもう少し行ったところに、竜門といって、岩と岩の割れ目を水が勢いよく流れ落ちる場所がありますので行ってみます。
三つ滝から歩いて5分のところです。竜門に来ました。
岩肌が荒々しく削り取られた落差のある水路を水が激しく流れています。
三段峡はその大部分は安芸太田町にありますが、北側の一部は北広島町に属します。今回紹介した三つ滝と龍門のある場所は、どちらも北広島町側にあります。

掛け軸 国府犀東の書
上の掛け軸(個人蔵)は、「三段峡」と命名した文部省官僚の国府犀東(明治6年~ 昭和25年)の書です。
国府は三段峡の中の特に優れた見所を五か所選んで「五大偉観」と名付け、漢詩に残しました。
右の漢詩には、

龍門難弟猿飛兄
二段孰於三段勅
堂奥更推三曲瀑
自斎五大偉観名 
癸亥(大正十二年)十一月三十日
三段峡還途上賦此 犀東

と書かれています。詩の意味は、

「竜門」と「猿飛」はどちらを兄とも弟も決め難い。「二段滝」と「三段滝」も同じである。 
一番奥にある「三つ滝」は更に推薦できる。
これよりこの五つを「五大偉観」と名付けよう。

皆さんもぜひ、この「三つ滝」「竜門」を見にお出かけください。​

芸北民俗博物館

樽床ダム 昭和32年
出典:「樽床・八幡山村生活用具および民家保存修理工事報告書」 北広島町教育委員会

北広島町八幡にある樽床ダムの堰堤に来ています。
このダムは昭和32年に完成しますが、このダムができるまで、このダムの底には樽床という集落があり、73戸の家と、388人の生活がありました。
この堰堤のすぐ上に、芸北民俗博物館があります。
民俗博物館の中に入ってみます。

おうむしせいろ
ここには、ダムで沈んだ樽床の人たちが使っていた生活用具が479点収集されて、ここに展示してあります。この収蔵品は、国の重要有形文化財に指定されています。
まず目につくのは、この大きな桶を上から吊るしたものです。これは麻布をつくるものです。昔樽床では、麻を栽培していました。成長した麻を刈り取って、それをこの中に入れて、下から蒸気を当ててむすためのせいろです。「おうむしせいろ」と呼ばれるものです。

ゆきわらんじ
それから樽床は、雪深い所だったので、雪に関係した生活用品もたくさん紹介されています。これは、雪の中を歩く時のために藁で作った靴です。「ゆきわらんじ」と言います。
またこれは、雪の中に沈まないように歩くために靴に着ける、いわゆる「かんじき」ですが、ここでは「雪輪」とか「かるこ」と呼んでいたようです。

中門造り 清水庵
外に出てみます。
ここにある民家は、ダムに沈んだ樽床にあった清水さんという家を移築したものです。これは家の建物が玄関の部分で直角に折れ曲がって作られています。これは、「中門造り」と呼ばれるこの地方独特のものです。この建物も、現在国の重要有形文化財に指定されています。
この曲がった部分(写真右側)を中門とよびますが、ここでは、牛や馬が飼われていました。衛生的には、牛や馬は母屋から離した方がいいのですが、雪深い所なので、母屋から離しますと、餌をやりに行くのも、暖房を取るのも大変です。そのためにこうして、母屋にくっつけるようにして建てられています。

囲炉裏
土間から上がると、そこには「囲炉裏」があります。このいろりの火を中心に家族も団らんし、家畜も一緒に生活し、この灯りを元に夜なべ仕事などもやっていたのでしょう。

皆さんもぜひ、この、樽床にある民俗博物館、それから中門造りの清水庵を訪れてください。

小倉山城

小倉山城 地図
発行:北広島町教育委員会

今回は、北広島町大朝地域の新庄にある小倉山城に登ってみたいと思います。ここは戦国武将、吉川家の居城です。
この城の本丸に登るには、南側コースと北側コースがありますが、今回は南側コースのショウブ園側から上ってみます。

小倉山城 本丸
麓から歩いて約10分で、本丸まで登ってきました。
ここに登りますと、北広島町内の山々がよく見えます。正面の山は加計山です。
吉川氏というのは、元々は駿河国、今の静岡県にいた武士ですが、14世紀の初めごろに大朝にやってきます。最初は、大朝の駿河丸城などに入りますが、8代吉川経見のときに、ここに小倉山城を築きます。以来、14代興経までの7代170年にわたってここが吉川氏の居城になります。

龍山八幡神社
出典:北広島町ホームページ

この城の麓には、吉川家の守り神である「龍山八幡神社」もあります。「龍山八幡神社の本殿」は、広島県内の神社としては厳島神社に次ぐ古さを誇り、国の重要文化財にもなっています。
この小倉山城への道はよく手入れされていて、子どもさんでも安全に登ることができますので、ぜひ登ってみてください。

有田城

今回は、千代田インターチェンジから車で5分の所にある有田城に登ります。有田城は、今から500年ほど前の、永正14年(1517)年に、この城をめぐって大きな戦いが行われます。「有田合戦」とか「中井出・又内川の戦い」と呼ばれるものです。
祇園銀山城の武田元繁が山県郡に勢力を伸ばそうとして攻撃してきました。それを迎え撃ったのが、毛利・吉川連合軍です。その中心は、21歳の毛利元就でした。この戦いは、毛利元就の初陣としても知られています。

有田城跡 登山道入り口

今回は、旧石州街道沿いにある有田八幡神社の入り口から登ります。ここからだと約20分で頂上まで行きます。

有田城跡 頂上風景
頂上まで登ると、千代田地域の風景が一望できます。
「有田合戦」は、この城の麓で行われました。
武田軍と吉川・毛利連合軍の戦いは、戦力的には武田軍の方が優位でしたが、いざ戦いが始まってみますと、一進一退でなかなか決着がつきません。
業を煮やした武田元繁は自ら馬に乗って、先頭に立って攻撃を仕掛けてきました。そこを毛利側に集中攻撃されます。
ここらあたりの戦いの様子は、『陰徳太平記』という本に詳しく述べられています。

概略を紹介します。
大将の武田元繁は、馬に乗り先頭になって攻めかかってきたのですが、毛利側はそこを集中攻撃します。そのうち一本の矢が、元繁の胸に突き刺さります。そして、馬から真っ逆さまに又内川に落ちます。そこを毛利の家来の井上左衛門尉(いのうえさえもんのじょう)という人が、駆け寄ってきて、首を切り落とし「日頃、鬼神の様に恐れられし武田殿を、井上左衛門尉討取たり」と叫びます。
それを機に、武田軍は総崩れになります。

武田元繁戦死之地 石碑
『陰徳太平記』は、江戸時代になって毛利・吉川の立場から書かれた書物なので、この通りだったかどうかは分かりません。
武田元繁が斃(たお)れたところには、現在「武田元繁戦死之地」という石碑が建てられています。
この戦いは、戦力的に劣る毛利・吉川軍が大勝したこと、またこの戦いをきっかけに、毛利元就が中国地方の覇者になっていくことなどから、今川義元を破って天下取りに名乗り出た織田信長になぞらえ、「西の桶狭間」とも呼ばれます。

有田城跡 頂上風景 反対側
頂上から反対の方向を見ると、千代田連峰とか八重三山と呼ばれる山並も見えます。
みなさんもぜひ有田城に登ってみてください。

大暮 清流の家&中国製鉄跡地

清流の家 外観 清流の家 内装

北広島町の大暮、「清流の家」に来ています。ここは、元小学校の建物でしたが、現在は、キャンプなどの野外活動施設として多くの人たちに利用されています。
この木造校舎は、昭和27年に建てられていますから、今年で築70年にもなりますが、まだまだしっかりとした建物です。
中に入りますと、廊下、天井などは新しく張り替えられていますが、昔の学校の面影をそのまま残している郷愁感あふれる建物になっています。
家族やグループでのキャンプや野外活動にぜひご利用ください。
連絡先は、清流の家(阿佐山地域振興協議会)
〒731-2204 広島県山県郡北広島町大暮590
Tel & Fax:0826-38-0888 E-Mail:master@seiryu.info

です。 

さて今日は、ここから少し先にある地元の人が『溶鉱炉跡』といっている場所に行ってみようと思います。では出発します。

溶鉱炉跡 レンガ煙突 中国製鉄大暮工場 大正時代

ここが『溶鉱炉跡』です。高いレンガ煙突が一本だけ残っています。
これは何かといいますと、その説明する前にもう一枚の古い写真を見てください。これは大正年間にこの場所を写した写真です。ここに二本の煙突が写っていますが、この写真の右側の煙突がこの煙突です。日本の近代化遺産として大切に保存されています。
さて、改めて、これは何の建物かといいますと、これは『中国製鉄大暮工場』のあった場所です。つまり、大正時代にここで鉄を作っていました。
日本古来の製鉄「たたら製鉄」は江戸時代から明治の初めころまで続きますが、明治に入ると、洋式製鉄に押されてたたら製鉄の火は急速に消えてしまいます。
江戸時代、郡内各地でたたら製鉄が盛んに行われていたころ、大鍛冶屋のあった近くには不純物が多くて商品にならなかった鉄滓(てっさい)とか金糞(かなくそ)と呼ばれる鉄くずが山のように捨てられていました。江戸時代の技術ではそれ以上は鉄を取り出すことができませんでしたが、そこにはまだまだ大量の鉄分を含んでいました。つまり、今でいう鉄鉱石だったわけです。
大正時代になって、江戸時代には捨てるしかなかった鉄滓を集めて、それから鉄を取り出す技術が開発されます。そうやって鉄を作っていたのが、ここ中国製鉄大暮工場です。ここでは「大暮木炭銑」というブランド名の大変に良質の鉄を作っていました。
これは言うならば究極のリサイクルです。また別の言い方をすれば、日本古来のたたら製鉄と、外国の新しい洋式製鉄の、ちょうどその端境期(はざかいき)に、ぱっと花開いて散った製鉄でした。
ぜひ皆さんもここ大暮を訪れてください。このすぐ近くには、大暮養魚場もあり、そこでは釣り堀りを楽しむことも出来ます。
ここ大暮に来るには、国道186号線を北上します。芸北地域の細見で右折してください。そこから5分ほど進むと左に宮瀬神社が見えます。そこを左折してください。5分ほどで、先ほどのスタート地点の『清流の家』に着きます。

戦国の庭歴史館

戦国の庭歴史館に来ました。許可をもらっているので中に入らせてもらいます。
中に入りますと、中世、ここに住んで居た吉川元春、それから子供の元長、広家の時代の人々の暮らしぶりの分かる展示物があります。

当時のトイレ
出典:「いぶき 中世のひろしま」 No.11 広島県教育委員会

この大きな桶のようなものは、ここから出土したトイレです。(写真は出土したときの状況。現在はきれいにして中に展示してある。)
このトイレの中の土を分析することによって、当時の人たちが食べていたものが推定されます。ここに当時の料理の一部が再現されています。イネ、ソバ、ヒエ、川魚、ウリ、ナス、ウメ、動物の肉などを食べていたようです。

こけら経の版木
出典:「いぶき 中世のひろしま」 No.16 広島県教育委員会

それからこの近くの万徳院跡から出土したこけら経とよばれる版木です。版木というのは、お経の文字を彫って印刷するためのものです。そのため文字は左右逆に彫られています。ヤマザクラ材が使われています。ここに彫られているのは法華経です。

木の札
出典:「いぶき 中世のひろしま」 No.12 広島県教育委員会
それからこれは木の札です。こうした木の札もたくさん出ています。ここには文字が書かれていますが、表には「きゝやうすほ一ツ」とかかれています。裏には「かゝいさまへ」と書かれています。桔梗の花を乾かしたものは、風邪によく効く薬草だったようです。「すほ」というのは、「すぼ」と読みますが、藁で包んだものをいいます。「かゝいさまへ」というのは「お母様へ」という意味です。つまり、誰かは分かりませんが、お母様に、風邪薬を藁でラッピングして贈ったもののようです。

蠅叩き
提供:戦国の庭歴史館

またこれは、「為蝿打ンガ造之者也」(蝿を打たんがためにこれを作るもの也)と書かれています。
蝿叩きです。これで蝿を打ち落としたり、追い払ったりしたのでしょうか。しかし、使う目的を墨書した理由はよく分かりません。こう書くことがある種のおまじないとしての役割をはたしていのかもしれません。

吉川元春館跡 ジオラマ
これは前回も紹介した、この建物群全体のジオラマです。
もっとも戦国時代ですから、吉川元春も、その子供の元長も広家も、日々戦いに明け暮れていました。
元春も、元長も、九州に遠征に行きその遠征先で亡くなっていますし、広家に至っては朝鮮半島や関ケ原にも出陣しています。ですから、ここの建物で落ち着いた生活をしていたというわけではありません。
是非皆さんも、前回紹介した、吉川元春館跡とセットで、この戦国の庭歴史館を訪れてみてくださぃ。
ここに来るには、千代田インターで下りて、国道を大朝方面に向かってください。車で5分を進んだところに、蔵迫という四つ角があります。そこを左折してください。そこからまた5分ほどでここに着きます。

吉川元春館跡

吉川元春像
     吉川元春像(新庄小学校蔵)

北広島町海応寺にある吉川元春館跡です。ここは国の史跡になっています。
吉川元春というのは、有名な戦国武将の毛利元就の次男です。長男の毛利隆元、それから弟の小早川隆景と共に、「三矢の教え」でよく知られた方です。毛利家から、吉川家に養子として入り、吉川元春を名乗ります。

石垣
出典:「いぶき 中世のひろしま」No.24 広島県教育委員会

最初に出迎えてくれるのが、この豪快な石垣です。高さ3m、幅は100m近くあります。この石垣は、独特の築き方がしてあります。鏡石と言われる大きな石を縦にして、だいたい等間隔にならべ、その間を横に石を積み上げていきます。

土の中の石垣1 土の中の石垣2
出典:「いぶき 中世のひろしま」No.24 広島県教育委員会
さらに実は表面からは見えないのですが、この裏の土の中にも、石が築いてあって、大変に頑丈に出来ています。そのため、この建物が出来てから500年くらい経ちますが、全くびくともしていない頑丈な作りになっています。
これを築いたのは「石築きの者ども」と言われた石垣作りの専門集団によるもので、この近くにも、それから厳島神社にもこれと同じ方法で築かれた石垣があります。

吉川元春館跡 現在 吉川元春館跡 ジオラマ
出典:北広島町ホームページ
上は御覧のような広い公園になっています。
このままではわかりにくいので、吉川元春屋敷跡の復元したジオラマを見てください。
ここには、このように大きな建物がたくさん作られていて、大勢の人たちが出入りしていました。
現在は、左端にあった台所だけが、復元されています。
この近くには、吉川元春の墓所や「戦国の庭歴史館」という資料館もあります。ぜひ一度訪れてください。

ここに来るには、千代田インターで下りて、国道を大朝方面に向かってくださぃ。車で5分ほど進んだところに、蔵迫という四つ角があります。そこを左折すれば5分ほどでここに着きます。

八幡と牧野富太郎博士とカキツバタ

牧野富太郎
提供:高知県立牧野植物園

今回は、北広島町の八幡です。
八幡は県内有数の豪雪地帯ですが、珍しい植物や動物にめぐまれた自然の宝庫でもあります。
ここを、世界的な植物学者の牧野富太郎博士が何度か訪れています。
特に昭和8年6月4日に来られた時には、おりしも満開に咲くカキツバタに感激して、土手に座り込み、最初はハンカチを、次には自ら着ておられたシャツの前面を紫色に染めて喜ばれたというエピソードが残っています。またその場で俳句も詠まれています。
博士は、そのときのことをご自身の書かれた本の中にも書かれています。

牧野富太郎 絵 (画:入澤良枝)
『植物知識』より抜粋。
今からおよそ十年余りも前に、広島県安芸の国の北境なる八幡村で、広さ数百メートルにわたるカキツバタの野生群落に出逢い、折ふし六月で、花が一面に満開して壮観を極め、大いに興を催し、さっそくたくさんな花を摘んで、その紫汁でハンケチを染め、また白シャツに摺り付けてみたら、たちまち美麗に染まって、大いに喜んだことがあった。その時、興に乗じて左の拙句を吐いてみた。

衣に摺りし昔の里かかきつばた

上田郷 現在 上田郷 昭和初期
牧野博士が、土手に座り込んで、シャツを紫色に染めたと言われている場所がここらあたりです。地元では上田郷と呼ばれている所です。
現在は、ご覧のように全て水田や畑になっていますが、博士が来られた昭和初期には、この上田郷一面に、カキツバタが満開に咲いていました。
右の写真は博士が来られた昭和初期の上田郷の様子です。
これらのカキツバタは人が植えたのではなく、全て自生で群生していました。

石碑
八幡千町原に、その時に牧野博士が作られた俳句、それを博士ご自身が揮毫された文字をもとに作られた石碑があります。「衣にすりし 昔の里か燕子花 牧野結網 昭和八年六月四日芸州八幡村かきつばた自生地にて」と書かれています。
石碑の前に植えられているササは、牧野博士の奥さんの壽恵(スエ)さんが亡くなられた時に、そのころに発見された新種の笹に、奥さんの名前を付けられた「スエコザサ」です。

カキツバタ畑
この近くに、カキツバタ畑があります。これは、地元の人と、八幡の自然を愛する人たちが協力して、牧野博士が来られたころのカキツバタを再現しようと、「カキツバタの里づくり」という取り組みが始まり、もう20年以上続いています。また牧野博士の故郷に近い、高知県越知町との交流も続いています。今年も博士の来られた6月4日に、カキツバタ祭りが開催される予定です。
ぜひ、6月のカキツバタが満開の頃、八幡を訪れてください。

古保利薬師

古保利薬師 地図 古保利薬師 山門
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は国土地理院発行の電子地形図(タイル)を加工したものである。

今回は、千代田インターのすぐ近くにある古保利薬師を訪ねます。
ここは車で登ることもできますが、今回は麓の駐車場から歩いて登ります。
苔むした階段を上ると、山門に着きました。辺りは森閑とした空気に包まれています。下の駐車場から5分ほどで山門の仁王像が迎えてくれます。
古保利薬師の前身は、平安時代、この地にあった福光寺(ふっこうじ)という寺ですが、その寺は残っていません。現在は、コンクリートでできた収蔵庫があるだけですが、この中には、薬師如来像や十一面観音像などの仏像が残されています。
今回特別に許可を頂いたので、カメラと一緒に中に入ってみたいと思います。
 
薬師如来像
中心にあるのが、薬師如来像です。ご覧のように、実にふっくらとしたやさしいお姿をしておられます。あらゆる病気やケガ、悩みごとを癒してくださるような気がします。
両脇に、日光菩薩と月光菩薩像が立っておられます。
それからこれは千手観音、十一面観音、四天王像などが並んでいます。これら12体は、現在、国の重要文化財に指定されています。

これらの仏像を作ったのが、この地に住んでいた地元の仏師が作ったのか、あるいは京都方面から著名な仏師が来て作ったのか分かりませんが、いずれにしても、京都から遠く離れたこの山間の地に、これだけ優れた仏像群が残っているというのは、大変に珍しいことだと思いますし、それだけ巨大な勢力を持った豪族がこの地にいたということでしょう。
ぜひ皆さんもこの古保利薬師にお出かけください。この収蔵庫の裏には、5世紀か6世紀ごろの古墳群もありますので、併せて一緒にご覧ください。
ここに来るには、千代田インターで降りて、国道を大朝方面に向かってください。最初の交差点を右に曲がればすぐです。

毎週月曜日休館 大人300円(200円) 高校生100円(50円) 小・中学生無料
※( )は10名以上の団体

城岩

城岩地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は国土地理院発行の電子地形図(タイル)を加工したものである。
私は今、北広島町雄鹿原の中祖会館の前に来ています。
これからここ雄鹿原にある城岩という岩をめざします。
まずここまで来る方法ですが、広島方面からだといくつかの方法があります。
分かり易いのは、戸河内インターで降りて、国道191号線を北上します。松原に来たら、国道191から県道11号に入ります。約30分で国道186号線に出ます。そこを左折して3分ほどでこの雄鹿原郵便局前まで来ます。戸河内インターから約30分かかります。
さて、ここから城岩をめざしますが、この先で国道から左折します。

城岩 登り口
中祖会館から歩いて20分ほどで、城岩の登り口に着きます。そこを左折して登ります。

車でも上がれるのですが、健康のために、ここに車を止めて歩きます。

城岩に着きました。
縦横10m四方くらい、大変に大きな岩があります。梯子があるので、登ってみます。
ここから見ると、雄鹿原の全景が見えます。

栗福合戦図絵:佐々木和正)
かつて、この地では、中世に栗福合戦という戦いが行われた戦場です。
栗福合戦というのは、戸河内の栗栖権之頭(くりすごんのかみ)と石見の福屋杢之丞(ふくやもくのじょう)が戦った合戦です。栗栖と福屋の頭文字をとって、栗福合戦と呼ばれています。結果は福屋が勝ち、栗栖が負けたとされていますが、その栗栖権之頭はここ城岩に陣を敷きました。

城岩 頂上
地元では、そのときの戦いを元にした祭り『乙九日炎の祭典(おとくんちほのおのさいてん)』が毎年9月の第4土曜日に開催されています。ただ、コロナの関係でここ2年程は中止されましたが、今年はどうするのかまだ決まっていません。
ぜひ、この城岩を訪れてかつての古戦場跡を眺めてみてください。

龍頭山(2)

駒ヶ滝

前回の続きです。今回は,駒ケ滝(こまがたき)から龍頭山の頂上まで登ります。
では出発します。

黒滝
ここは黒滝(くろだき)と言います。ごらんのように、普段は岩の間からぽつりぽつりと水が染み出ているだけの、滝とも言えない、ただの黒い岩ですが、実は冬場の寒い日になると、様相が一転します。この少しずつ染み出ている水が、全部凍って氷の滝が出現します。
では頂上に向かって出発します。

龍頭山頂上
頂上に来ました。駒ケ滝から約1時間かかりました。しかし、ここは、360度ほぼ眺望の開けた大変に見晴らしのいい山です。遠くに中国山地の山々、眼下には豊平の田園風景が広がります。天気さえ良ければ、瀬戸内海に浮かぶ厳島、似島まで見ることができます。
前回も言いましたが、下から歩いて登ると、だいたい2時間くらいかかりますが、車で頂上付近の駐車場まで来ることもできます。それだと20分くらいで頂上に登ることができますので、ぜひ龍頭山に登ってみてください。

龍頭山(1)

豊平どんぐり村

豊平地域の「道の駅 豊平どんぐり村」に来ています。
ここに来るのには、中国自動車道の広島北インターで降りて、国道261号線を北上します。途中、鈴張で国道261号から県道40号に代わります。広島北インターからだと車で20分くらいで着きます。
豊平はそばの里としても有名ですが、向こうに見える龍頭山(りゅうずやま)も、この地域を代表する山です。
龍頭山の高さは928.4m 『苦にはしない』と覚えてください。
ここに登るには、いくつかのルートがあります。下から歩いて登ると、だいたい2時間くらいかかります。中ほどにある滝の上駐車場からでも1時間くらいかかります。ただ車道が整備されていますので、頂上付近の駐車場まで車で登ることもできます。それだと20分くらいで頂上に登ることができます。
山の中腹に駒ケ滝(こまがたき)という滝がありますので、今回は、そこまで登ります。では出発します。
駒ケ滝に来ました。

都志見往来日記・同諸勝図
資料提供:広島市立中央図書館(浅野文庫)
江戸時代、寛政9年(1797年)に、広島藩の絵師、岡岷山(一般には「おかみんざん」と呼ぶが、「おかびんざん」という説もあり)という人が、広島城下からこの滝を見に来て帰るまでの道中を絵日記にまとめています。それが『都志見往来日記・同諸勝図(つしみおうらいにっき・どうしょしょうず』と呼ばれているものです。
これが、岡岷山の描いた駒ケ滝の絵です。当時は、今と違い、簾のように横に幅広く広がって落ちていたようです。周囲の木も、今ほど大きくなかったようです。
滝壺の下に観音さまがあります。上から落ちて来る水を上手に避ければ行くことができます。
皆さんもぜひ駒ケ滝までお出かけください。

テングシデ

テングシデ 地図
出典:国土地理院ウェブサイト

第一回目は、北広島町大朝地域にある『テングシデ』です。
ちょっとこの地図を見てください。
テングシデに行くには、中国自動車道から浜田自動車道に入り、最初のインターの「大朝」でおります。降りてから国道ではなく、左折して県道を大朝方面に向かいます。
大朝の『わさ大橋』を渡った交差点を左折して田原方面に向かいます。

テングシデ
提供:北広島町観光協会

これがテングシデの群生地です。
これはイヌシデという植物が群生しているのですが、どういうわけかここにあるイヌシデだけは、全部の木の枝がこのようにくねくねと曲がりくねっています。そのためにテングシデと言われています。
ここには大小合わせて約100本のイヌシデがありますが、なぜか全部このように曲がりくねっています。大変に不思議なので、現在国の天然記念物に指定されています。
ここを訪れるのは、どの時期もいいのですが、特におすすめしたいのは春の新緑のシーズン、それから少し雪を冠った冬のテングシデも大変に美しい風景です。

テングシデ 雪
提供:北広島町観光協会

それとこれが大切なことなのですが、運が良ければ、この曲がった木と木が作る空間にハートの形がみつかることがあります。それを一つでも見つけると恋愛が成就するパワースポットとされています。特に8個見つけると、8を横にすると無限になるので、愛が永遠に続くといいます。ぜひ、ここに来られて実際にお試しください。

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お問い合わせ

北広島町まちづくりセンター (旧:千代田地域づくりセンター) 電話 : 050-5812-2249
大朝地域づくりセンター 
電話 : 050-5812-3025
豊平地域づくりセンター  電話 : 050-5812-4020
芸北文化ホール 電話 : 050-5812-2070