ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

きたひろエコ・ミュージアム 街道をゆく 番外編3

印刷用ページを表示する更新日:2022年2月17日更新

きたひろエコ・ミュージアム「街道をゆく」の番外編を作って放送しています。
「街道をゆく」本編の方は、昔の街道と、そこにまつわる歴史や民俗を解説しながら紹介します。
それに対し番外編の方は、あまり人に知られていない山、川、滝などを紹介します。出来るだけ解説部分は短くし、カメラ視線で現場に至るまでの道筋を紹介します。

「きたひろエコ・ミュージアム」はこちらをご覧ください。

小見谷(こみたに)製鉄遺跡を歩く

小見谷製鉄遺跡分布図
     小見谷製鉄遺跡群分布図

(上石集会所)
豊平地域の上石集会所の前に来ています。今回はこれから、小見谷と呼ばれる山道を歩こうと思います。
小見谷は、中世の製鉄が盛んに行われていた場所です。現在、分かっているだけで、20ケ所の製鉄跡と数ケ所の炭窯跡が確認されています。
一般に中世、つまり江戸時代よりも前の製鉄は「たたら製鉄」とは言いません。普通に「製鉄」とか「古代製鉄」という場合が多いようですので、今日は製鉄で通します。
ただ20ケ所の製鉄跡と言っても、20ケ所が同時期に製鉄を行ったというのではありません。製鉄というのは大量の木材を必要とします。そのため、その頃の製鉄は周囲の木を切って、木が少なくなったら、別の場所に移動して行いました。ですから、20ケ所あっても、それは時代が少しずつズレているということでしょう。
では出発します。

(カミショウブの製鉄遺跡)
ここに現在発掘中の製鉄の跡があります。辺りには、鉄滓がたくさん落ちています。
山の斜面が平に削ってあります。真ん中に炉があって、その両側から「ふいご」で空気を送っていたのでしょう。近くには炭を置く場所や、砂鉄を置く場所もあったものと思われます。
ここの小見谷製鉄遺跡は、比治山大学の安間(あんま)拓巳(たくみ)先生が毎年のように測量調査に取り組んでおられます。そしてこの「カミショウブ製鉄遺跡」と呼ばれる遺跡は、昨年初めて発掘されたもので現在もまだ発掘作業の途中です。
写真は昨年の発掘調査の様子です。

発掘作業

この小見谷は、吉川元春館跡のすぐ近くにあります。おそらく、吉川家の使う鉄は全てここで生産されたのでしょう。
これは、吉川元春から家来の森脇四郎兵衛に宛てた手紙です。

森脇四郎兵衛宛ての手紙
わなみのかちをやとい度事候、其方中○○めしよせ候而越候者可為祝着候、
為其申遣候、然る急事候間従今日越○に可申遣候 一両日事はやとひの事候間似相心付候へく候 かしく

後八月廿九日 もと春公御判

○のついている文字があります。これは、原文を、江戸時代の文政6年(1823)に書き写したものですが、その時に、紙の劣化か、あるいは崩し字が読みにくくて判読できなかった文字です。
この冒頭の部分に、「わなみのかち」と書かれています。「わなみ」というのは、ここ上石にある地名で「わなみばら」ともいいます。ちなみに「かじやばら」という地名もあります。この川は「小見谷川」といいますが、別名「和波川」とも言います
この手紙の内容は、「和浪の鍛冶屋を一日か二日貸してほしい」と依頼したものです。この手紙から分かることは、ここら一帯に吉川の時代に、製鉄や大鍛冶屋など鉄関係の仕事に従事していた職人がたくさん住んでいたということです。
戦国時代の武士は、ただ武力さえ強ければいいというものではありません。武力を支える財力も必要になります。それは、「金山」であったり、「銀山」であったり、あるいは外国との貿易であったりします。吉川氏の財力の一つは、ここ小見谷の製鉄でした。
では次に行きます。

頂上の回転所

(頂上の回転所にて)
道は、ここまで車で来ることが出来ますが、ここで行き止まりです。かつてはここから向こう側へ降りる道があったようです。
ここを越しますと、西宗・中原に出ます。西宗・中原には、かつては「三角野村(みすみのむら)」と呼ばれる鉄の村があったことが分かっています。

安芸国三門野村作田検注名寄目録写
これは、厳島神社の古文書ですが、ここに安芸国山県郡三角野村が米の代わりに鉄を税金として出したという記録が書かれています。
三角野村というのは、中原、西宗を中心としたかなり大きな村だったようで、三角野村の地名の中には今の琴谷と思われる地名も含まれています。
つまりこの山を中心にして豊平地域のかなり広い所が、古代から中世においては、日本を代表する一大製鉄地帯であったともいえるわけです。
皆さんもぜひこの中世の製鉄地帯を歩いてみてください。

棚原から金比羅谷ヘの道

今回は大朝地域岩戸にある八栄神社から南原、鉄穴原を通り棚原へ出て、川戸の金毘羅谷まで行きました。

棚原 地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。

棚原

棚原(写真)まで来ました。ここまで八栄神社から約1時間かかりました。
ここは大朝地域岩戸の一部です。家が何軒か見えますが、人は住んではおられないようです。ただ野菜が作ってありますから、時々作業に来られているのでしょう。
川には、大変に清らかな水が流れています。
辺りは静寂としていて、まるで時間が止まったかのような風景が広がっています。

湯壺橋に来ました。この下に湯坪という渓谷があります。
今回、この旅を計画したのは、大朝町教育委員会の発行した『あぜみち放談』という本の第二集に、棚原に住んでおられた方の書かれた「続 湯坪物語」というものを読んだからです。一部を紹介します。

里より、棚原川にそって南へ約七百メートルくだると、里の名所?湯坪に着きます。正確には、大朝町岩戸字湯坪と申します。無論地名でございます。
見所は延長約百五十メートルの間、小さな二つの滝と三か所の淵でございましょうか。中でも面白いのは中の淵(横の壺とも申しますが)でございましょう。
(略)
昔、銑鉄を冷やす湯舟に使ったのだと話される人もおられますし、風呂桶に似ているからと話される方もおられます。

棚原川1 棚原川2

橋から谷に降りてみました。
ここは、『あぜみち放談』に書かれてある通りに、大変に美しい渓谷です。ほとんど人に知られていない秘境と言ってもいいでしょう。紅葉の季節が特に素晴らしいのではと思います。おそらくこの右の写真の丸い淵が、文中に出てくる「中の壺」と呼ばれているものでしょう。
ただ、ここは足場があまりよくないので、もし見に来られるのでしたら、滑って怪我をされないように十分に気をつけてください。

金比羅大権現
千代田地域の川戸地区、金毘羅大権現までやってきました。
琴平川と森光川が合流する地点です。ここらあたりを金毘羅谷といいます。八栄神社からここまで約2時間かかりました。
この金毘羅神社について、『山縣郡川戸村国郡志御用ニ付下しらべ書出帳』に、次のように書かれています。

金比羅大権現年毎三月 六月 十月 十日祭礼ニ而 御湯立又ハ若キ者共相撲を取神事を祭申候

つまりこの神社で、年に三場所、若者たちが相撲をしていたようです。
おそらく近辺各地から、腕自慢、力自慢がここにたくさん集まってきて、賞金を掛けて戦っていたのでしょう。
そのために、この川戸というところには昔から大変に相撲が盛んで、ここの出身で全国的に有名になる強い力士が出てきます。

石碑
とくに有名になのが、江戸時代に出た緋縅力弥(ひおどしりきや)でしょう。川戸に石碑があります。97代の大関になった人です。
それから龍頭山鉄之助(りゅうずざんてつのすけ)という強い力士もいたようで、その石碑もあります。

今回は、大朝地区岩戸から棚原を通って川戸の金毘羅谷まで出る旅でした。この道は、車で通ることもできますので、ぜひ通ってみてください。

櫛山(1002m)

今回は大朝地域、田原にあるテングシデの入り口から山道を登った先にある『櫛山』と呼ばれる山に登りました。

この写真を見てください。これは、豊平地域の上石から写された山並です。
この高い山が、今から登る櫛山です。

豊平地域上石から見た山並 (写真提供 落合幸治)
     豊平地域上石から見た山並
この山は、大朝地域と、豊平地域と、芸北地域の三地域にまたがる山です。そして、この山は1000mをわずかですが越す1002mの標高があります。

櫛山 場所
大朝地域には1000mを越す山は他にもあります。芸北地域にはたくさんあります。しかし、豊平地域で1000mを越すのは、この山だけです。

それともう一つ、この山は地域によって呼び名が違い、今も固定した名前の無い山です。

『藝藩通史』と『國郡志書出帖』という江戸時代に書かれた本をみますと、江戸時代、大朝地域の田原の人は、この山を「灰谷山 ハイガタニ」とか「野地井山 ノジイヤマ」と呼んでいたようです。
一方芸北地域の溝口の人は、この山を「上櫛山 カミクシヤマ」とか「櫛山 クシヤマ」と呼んでいたようです。
豊平地域の志路原の人はこの山を「丸掛山 マルガケヤマ」と呼んでいたようです。
現在、国土地理院の地図を見ますと、ここら辺りでは一番高い山なのに、この山にだけは名前が付いていません。赤点線は、今回登ったルート。

楠山 地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。

しかし、名前がはっきりしないというのも何か心もとないので、私がいつも愛読しています、桑原良敏先生の『西中国山地』を見ますと、そこには「櫛山クシヤマ」と書かれているので、櫛山で通します。

櫛山4
見晴らしの良い所に来ました。ここからは北側の島根県方向の山がよく見えます。
この写真からは分かりにくいのですが、大朝の寒曳山、石見冠山、三瓶山などがよく見えます。
この場所はとても景色のよい所なので、ぜひお出かけください。ここにはトイレもありますし、ここまでは車でも来ることもできます。

櫛山 栃畑
分かれ道に来ました。ここらあたりは栃畑「とちばた」というところです。「とちばたけ」とか「とちがばた」という人もいます。
熊の城(くまのじょう)山と今日登る櫛山の分かれ道です。
ところでここはこんな深い山なのに、わりとしっかりした道があります。なぜ道ができているかというと。
一つには、この山は、かつてたたら製鉄が盛んだったころに、炭焼き職人がたくさん入山して炭を焼いたところです。木材を運び、出来た炭を運び出すための道です。
もう一つの理由は、この山は芸北と、大朝と、豊平をまたぐ山です。つまり、この山を越すのが、芸北と、大朝と、豊平をつなぐ一番の近道でした。先ほどの桑原先生の本によりますと、この「櫛山」という名前も、元は「越山」。つまりとなりの村に越していく山という意味だったろうと書かれています。

櫛山 頂上
櫛山の頂上に来ました。残念ながら、木が茂っていて眺望はよくありません。
ここに登山者の付けた札がありますが、櫛山と書かれていたり、丸掛山と書かれていたりします。
いずれにしても、この近辺にある山としては珍しく1000mを越す山だというのに、今も名前がはっきりしていないというのは、何か気の毒な気がします。
皆さんもこの櫛山と、それから隣の熊の城を結ぶ縦走コースは、道もしっかりしていて、比較的簡単に歩けるのでぜひ挑戦してみて下さい。

 


お問い合わせ

北広島町まちづくりセンター
〒731-1533 広島県山県郡北広島町有田1234番地
IP電話 : 050-5812-2249      Tel: 0826-72-2249   Fax: 0826-72-6034