今回は、芸北地域八幡の木束原の入り口から島根県との境、木束峠まで歩きます。
積雪は40cmほどでしょうか。この日は晴れていたので雪の結晶がきらきらと輝いていました。
さて、今回歩くこの道は、江戸時代に鉄の原料や製品が運ばれた鉄の道です。
(絵 入澤良枝)
たたら製鉄は、ここ八幡でも盛んに行われていました。特に今回歩くこの木束原周辺で盛んでした。
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
江戸時代、八幡で「たたら製鉄」をしていた場所は三か所あります。面谷(おもだに)、桧谷(ひのきだに)、甲繋(こうつなぎ)です。地図を見てもお分かりのように、いずれも人里から離れた山の中で、かつ比較的交通の便の良い場所にあります。
では現在地から木束峠に向かって出発します。
広島県と島根県の県境、木束峠まで来ました。ここに島根県との境を示す標識が建っています。
広島藩の太田川水系では、たたら製鉄のための砂鉄を採る鉄穴流しを禁止していましたので、砂鉄はほとんどがこの道を通って島根県側から広島県側に運ばれてきました。
八幡には、そうした砂鉄を一時的に集める所があって「中場」と呼ばれていました。中場は今の191スキー場のあたりにあったようです。そこから山県郡内各地のたたら場に砂鉄が運ばれていきました。
ところで、ここ木束峠の標高は800mあります。この峠をずっと降りていきますと浜田市の波佐に出ますが、波佐の標高は約400ⅿですから、ここからいっきに約400m下がることになります。
けっこう険しい峠です。波佐側から砂鉄を積んで険しい道をここまで登ってきますと、八幡高原になります。八幡高原は、ほとんど凹凸のない平らな土地が広がります。こういう片側だけ急な峠を片峠と云います。ここは典型的な片峠です。
砂鉄を運ぶ旅人はここでホッと一息ついたものでしょう。この峠は木束峠と云いますが、別名「大休峠(おおやすみとうげ)」とも言います。なにか、その言葉に当時の旅人の気持ちが表わされているような気がします。
(絵 福長千紘)
皆さんもぜひこの木束峠においでください。
今回は、大朝地域の上ケ原(うえんばら)にある「天意の里(あいのさと)」から、イチョウ寺として有名な九門明(くもんみょう)の「西教寺(さいきょうじ)」まで歩きます。
上ヶ原には広大な耕地が広がっています。ここ上ケ原は、戦後の昭和24年に14戸の開拓団によって開墾された土地です。もちろん重機など無かったころです。全て手作業での開墾ですから大変な苦労をされたようです。当時の入植者は、今は少なくなりましたが、新たに入って来られた人もいます。
開墾前は、ここには広大な原野が広がっていたものと思われます。そのためでしょうか、ここ上ヶ原には「上ケ原キツネ」という狐にまつわる昔話が数多く残されています。「上ケ原キツネ」は人をだましたり、いたずらをしたりする悪いキツネとして語られることが多いのですが、中には、人間から受けた恩をいつまでも忘れないキツネの話もあります。興味のある方は、過去の投稿『ふるさとの昔話 上ヶ原狐(うえんばらきつね)』をお読み下さい。下の絵をクリックすると記事を読むことができます。
それでは、上ヶ原の風景を見ながら西教寺に向かいます。
上ヶ原から歩いて約15分。西教寺に着きました。
ここ西教寺はイチョウ寺とも呼ばれています。もちろん境内にこの大きなイチョウの木があるからですが、それだけではありません。
この寺は、今から330年ほど前の1693年に建てられたということですが、 一本の大きなイチョウの木から寺の本堂と鐘楼門(しょうろうもん)が建てられたために、そう呼ばれるようになったということです。
その時に使われたイチョウの木は小山八幡神社の境内にある愛宕神社の辺りにあったと言われています。よほど大きなイチョウの木だったのでしょう。そのイチョウの木があった跡地は、今でも「イチョウ畑」と地元では呼ばれています。
その本堂と鐘楼門を建てられた時に、記念として庭に植えられたイチョウが現在の、この立派なイチョウの木に成長したといわれています。ですから、このイチョウも300年以上の歴史があるということになります。
皆さんもぜひ、イチョウの美しいシーズンに西教寺にお出かけください。近くには、美しいポプラ並木もあります。
今回は、大朝地域の間所から出発して「ほとけばら遊園」まで歩きます。
間所から見ますと、大朝の町並が大変に良く見えます。
大朝はかつて、広島県と島根県を結び、また奥山筋(芸北地区)への入り口にもあたる交通の要所で、大変に栄えた所です。
出典:『山縣郡の展望 第3輯』(撮影:野田不二仁)昭和11年発行 ※一部加筆
上の写真は、昭和11年頃、つまり今から90年くらい前にここらあたりから写された大朝の町並です。
下の写真は、今の写真です。写した場所が違うので分かりにくいのですが、赤円が円立寺です。この寺の場所は変わっていません。
ところで、民俗学者として有名な宮本常一は、この地をたびたび訪れています。
宮本の初期の代表作の『村里を行く』にも、大朝に泊まって見聞きしたことが書かれています。その一部を紹介します。上の写真とほぼ同じ頃に書かれた一文です。
(前略)大朝の町もまた出羽田所の盆地と大してかはらぬ景觀の地だが、唯北に寒曳山といふやや形のととのった圓錐の山を控えて風景を引き締めている。そしてこの町は廣島から濱田への省営バスも通って交通も便利である。ささやかな町だけれども山の港といった感が深い。(後略)
引用:『村里を行く』(宮本常一)昭和18年発行 224頁
宮本が「山の港」と表現したように、ここは山陰と山陽を結び、また芸北地域と大朝・千代田地域を結ぶまさに港のような所だったのでしょう。今もその面影が残っています。
これからこの近くにある「ほとけ原遊園」まで歩いてみたいと思います。
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
「ほとけばら遊園」というのは、元々、この近くに住んでいたある方が、お一人で作られた手作りの公園です。
石段を一つずつ積み上げ、紅葉の苗を一本ずつ持ってきて植え、仏像なども一基ずつ据えて、こうした紅葉の美しい公園として整備されました。約40年かけて作り上げられたといいます。
そのために、この「ほとけ原遊園」は私有地ですが、一般公開されていますので、誰でも楽しむことができます。紅葉の美しい時期に、ぜひ多くの人たちに訪れてほしいと思います。
今回は、鶉木峠(うずらぎとうげ)です。鶉木峠は、豊平の戸谷と加計を結ぶ街道にある峠です。山県郡の東部と西部を結ぶ道ともいえます。
出典:『大朝町史 下巻』(大朝教育委員会 現:北広島町教育委員会)昭和57年3月31日 141頁 ※一部加筆
この地図は、江戸時代の山県郡内の主要な街道を記したものです。
山県郡の東部と西部をつなぐ街道は何本かありますが、一番よく利用されたのが、この鶉木峠でした。
しかし、この鶉木峠は、木がうっそうと茂る険しい山道だったようで、通い慣れたものでも、うす暗くなるとちょっと不気味な峠道でした。
(絵:福長千紘)
昔の馬子唄に
怖わや眠たや鶉木峠 加計の隅屋が無けにゃよい
加計の隅屋は有ってもよいが 怖い鶉木無けにゃよい
と唄われました。
隅屋というのは、その当時広島を代表する鉄山師、加計の佐々木家のことです。
鉄を作る原料となる木炭や砂鉄、出来た鉄製品、たたら場や大鍛冶屋で使用する食料品や生活用品が馬の背中に結び付けられて、この道を通って上へ下へと運ばれていたのでしょう。
峠から歩いて20分ほどで酒森小学校跡地まで来ました。
酒森小学校は、昭和46年に豊平西小学校に統合しました。しかし豊平西小学校はここから山一つ隔てた所にあります。そのため地域によっては、豊平西小学校はとても遠い学校になります。そこで、子どもたちは二つに分けられ、ここよりも上の地域の子どもは山越しして豊平町立豊平西小学校へ、ここから下の地域の子どたちは隣町の加計町立加計小学校へ越境転入となりました。
現在、この建物は地元の集会所として利用されています。
また、木造校舎の趣のある建物を活用して、ホームテレビの『地球派塾』のキャンプ地としても長い間活用されてきました。
今回、特別に許可をもらいましたので、中に入らせてもらいました。
階段は、幅の広い一枚板で出来ています。多くの子どもたちが長い間、ここを上がったり下ったりして使い続けた結果、つや光りしています。階段の突き当りからは古いガラスを通して柔らかな外光が射しこんでいます。その光が、階段の中央を示す白いペンキを浮かび上がらせています。おそらく右側通行のルールがしつけられていたのでしょう。
ここに立ちますと、100年くらい昔にタイムスリップしたかのようなノスタルジアを覚えます。耳を澄ますと、遠くに子どもたちの歓声が今にも聞こえてきそうな錯覚にも陥ります。
ちなみにこの校舎で一番多くの子どもがいたのは、昭和20年の66名でしたが、閉校時には26名まで減っていました。
この校舎の先に、とてもきれいな淵があります。
ここの淵は地元の人たちは「釜ン濠淵(かまんごうぶち)」と呼んでいます。
ここに立ちますと、水の音と蝉の声だけが聞こえてきます。人工的なものは何も無くて、まさに全身が自然の中に包み込まれるような気がします。天然のミストシャワー降り注いできます。
岩肌には、こういう水しぶきが当たる所だけで生育するイワタバコが可憐な薄紫の花が咲かせていました。
ここはとても静かで美しい所ですからぜひ一度お出かけください。
出典:『南方戦国時代古城跡関係図』(絵:吉行忠)
今回は、千代田地域の南方にある南方城(別名 本郷城)に登ってみようと思います。
南方という所は、大変に中世の山城の多い所です。
広島県教育委員会が1993年に発行した『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』によりますと、南方地区だけで9ヶ所もの城があります。それだけ、南方は古くから開けた所で、この地をめぐって争いが繰り広げられてきた長い歴史があるということでしょう。
(義政)御判
安芸国山県郡内寺原郷、同有間名(羽仁出雲守跡)幷北方村、同河合名(野坂将監跡)、同南方村(南方出羽守跡)等事、為勲功之賞、所充行吉川次良三郎元経也者、早守先例可致沙汰之状如件
文明三年十一月廿五日
引用:『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書之一』 (財)東京大学出版社 大正14年12月5日 252頁
※旧字体は新字体に改めた
南方という地名が最初に出てくる古文書として有名なのは、「足利義政御判御教書案」(あしかがよしまさ ごはんのみぎょうしょ)とよばれるものです。
室町幕府8代将軍足利義政から出されたものです。足利義政というと、将軍としての実績はあまりない人ですが、京都の銀閣寺を建てた人として有名です。
この文書が書かれたのは文明3年(西暦1471年)といいますから、今から550年も前のものです。有名な「応仁の乱」の最中です。
文書の内容は、応仁の乱でこの地出身の、南方出羽守(みなみがたでわのかみ)が敵側の西軍に付いたので、南方氏の土地を取り上げて吉川次郎三郎元経に与えるというものです。
しかし吉川次郎三郎元経では時代的に合いません。応仁の乱の頃と言いますと、おそらく「鬼吉川」とか「俎板(まないた)吉川」と呼ばれて怖れられた吉川次郎三郎経基の間違いだろうと思います。
しかしこういう文書が一枚、遠く離れた京都の地で、それもあまり権威の無い将軍から、しかも名前を間違えて出されたからといって、その効力の程は不明です。
おそらく、この文書で南方氏が土地を取り上げられることはなかったと思われます。その証拠に、その後も南方氏はこの地で何代も続きます。
ところで、登り口付近に小さな祠があります。地元では毘沙門さんとよばれています。おそらくこの南方城を守るための毘沙門天を祀ったものと思われます。
ここの祠で面白いのは、この毘沙門堂の御神体は、地上から突き出たように安置してある先の尖った大きな石です。この近くの田の中にあったものを、ここに運んで祀ったという言い伝えが地元には残っています。
ここでは、今でも毎年4月3日に春祭りが行われています。かつては出店が出るほどに大変に賑わっていたといいます。
歩いて20分ほどで人工的な石垣がある場所に出ました。山城の一部のようです。上は平らですから、平らな部分には何か構造物があったのでしょう。いわゆる「郭(くるわ)」の一部かもしれません。石垣の保存状態も600年の風雪を考えると大変に良いようです。また、この石垣から察するに城全体は相当に大きなものだったろうと思われます。
歩いて30分。ようやく本丸と思える頂上に来ました。
眺望は全くありませんが、もしこれらの木が無かったら、おそらくこの場所からは、南方地域は勿論のこと、南方に対して北方と呼ばれていた現在の川西、川東方面まで見えたことでしょう。
出典:『山縣郡の展望 第二輯』(撮影:野田不二仁)昭和11年発行 ※一部加筆
ところで上の写真は、昭和11年発行の『山縣郡の展望』第二輯に載っている南方の本郷、木次方面の写真です。城の近くの遠見岩という場所から撮影されたもののようです。中央に道が走っていますが、これは今のバイパスではなく旧道の方です。南方尋常高等小学校や、公会堂、役場などが写っています。
下の写真は同じ遠見岩から同じ方向を向いて最近写されたものです。圃場整備やバイパスの開通などでいくらか姿形が変わっていますが、耕地や山の形は昔のままです。ほとんど変化はないと言ってもいいくらいです。もっと言えば、応仁の乱から大きな変化の見られない、いわば「悠久の里山」かもしれません。
ぜひ皆さんも、この中世の山城、あるいは眺望のある遠見岩に登ってみてください。
今回は、芸北地域八幡にある臥龍山(がりゅうざん)に登ります。臥龍山というのは、北広島町では一番高い山で、1223mあります。
臥龍山は、頂上近くまで車で登ることができます。しかし、今は車道が壊れていて、車は通行止めになっているので、途中まで車道を歩いて登ろうと思います。
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
ところでこの臥龍山というのは、刈尾山(かりおざん)とも言います。名前を二つ持っている珍しい山です。国土地理院発行の地図にも二つの名前が併記して書かれています。
この山の名前が最初に文字として出てくるのは、1663年に、黒川道祐(くろかわどうゆう)の書いた『芸備国郡志』ですが、そこには「狩龍山」と書かれています。まるで臥龍山と刈尾山をコラボしたような名前ですが、さて、これをその当時は何と読んでいたのでしょうか?ルビが打ってないので分かりませんが、もしかしたら「かりゅうざん」かもしれません。
出典:『國郡志御用ニ付下調書出帳東八幡原村』
麓から歩いて15分ほど登りました。
江戸時代に書かれた「國郡志御用ニ付下調書出帳東八幡原村」によりますと、この場所には江戸時代の終わりころまで「社檀岩(しゃだんいわ)」と呼ばれた大きな岩があったようです。高さ10間、横4間といいますから、高さ18m、横7,2mという実に大きな四角い岩だったようです。
そんなに大きな岩だったのに、なぜか今は影も形もありません。完全に消滅しています。ただ周辺を見ると崖崩れのように大小の岩が散乱しています。
『社檀岩想像図』(絵:福長千紘)
ここからは推測ですが、おそらく、その後の長い年月の中、大雨か地震、もしくは岩の割れ目に入った水が氷ったりして粉々に崩れてしまったものと思われます。そんな巨大な岩ならぜひ崩れる前の雄姿を一度見て見たかったと思い、まちづくりセンター職員に頼んで想像図を描いてもらいました。きっと当時、こんなふうな巨大な岩があってこの地を訪れる人を威圧していたのだろうと思います。
残念ながら社檀岩は消えていましたが、その代わりに社檀岩の傍に三ツ咲のササユリが私たちを迎えてくれました。
みなさんもぜひ臥竜山に登ってみてください。この山は頂上付近に近づくにつれて、ブナ林になり、白い木肌と緑の葉のコントラストが大変に美しい山です。
(撮影:辰野誠次)
※昭和12年10月11日臥龍山頂にて 前列左から2人目が牧野富太郎博士
なおこの写真は、今NHKの連続ドラマ「らんまん」のモデルとなっている、世界的な植物学者、牧野富太郎博士が、昭和12年10月11日にこの臥龍山に登られた時に、頂上で撮られた貴重な写真です。
この山は、西中国山地国定公園を代表する山です。頂上付近にはブナの大木が多く、たくさんの珍しい動植物の宝庫となっています。ちょうど今のこの季節が、ブナの新緑が目に鮮やかで、心身ともに癒される感じがします。皆さんもぜひ一度訪れてください。
今回は、芸北地域の雲月山に登ります。雲月山は「うんげつざん」とよみますが、古くは「うづつきやま」とか「うづきやま」と呼ばれていました。
雲月山は北広島町の最北端にある山です。この山の稜線が県境になっていて、向こうは島根県です。
この山は、ご覧のように大きな木がほとんどない草原です。これはどうしてかというと、毎年この山は、春先に山焼きをするからです。(今年は悪天候で中止)
昔の農業は肥料にしたり、牛や馬の餌にしたりするために山の下草がどうしても必要でした。そのために山焼きをしました。山焼きをしないと、木が大きくなり過ぎて下草が育ちません。また枯草をそのままにしておきますと、地表近くの植物に光が射さず、新しい芽が育ちません。
またこの山は、牛の放牧などもしていたようですが、牛の餌供給、安全な管理のためにも山焼きは絶対に必要なものでした。
現在、近くで山焼きをしているのは、ここ雲月山と安芸太田町の深入山くらいです。
向こうに山に斜めの線が二本見えるのがお判りでしょうか?写真からでは分かりにくいので、矢印と線を入れてみました。あれは、人工的な水路の跡です。
写真提供:奥出雲町役場
これはたたら製鉄と関係があります。たたら製鉄というのは、砂鉄と木炭から鉄を作る日本古来の製鉄技術ですが、あの水路は砂鉄を採るためです。
山を崩して、土砂を水と一緒に水路に流します。比重の違いで重い砂鉄は下に沈殿し、軽い砂や土は下流に流れていきます。そうした比重の違いを利用した砂鉄を集めるために考えられた水路です。それを鉄穴流し(かんなながし)と言います。
もっとも広島藩は早くから太田川での鉄穴流しを禁止にしていたので、あの水路は島根県側に流れていって島根県で砂鉄を集めていました。
頂上に来ました。大きな木が無いので、360度ぐるりと見渡せる山です。
北の方向を見ますと、島根県の山、それから晴れた日には遠く日本海まで見えます。
東方面を見ますと、中野冠山、才乙スキー場のある高杉山、さらにその向こうには天狗石山が見えます。
南西の方角には、深入山、掛頭山、臥龍山、大佐山などがみえます。
この山は、麓の駐車場から30分くらいで登ることができますのでぜひ一度おいでください。
今回は、「クマヒラパーク北広島」近くの駐車場から歩いて壬生城に登ります。
この壬生城の城主は、山県信春(やまがたのぶはる)という人でした。
この近くの梅ノ木というところに、「山県信春」の墓所があります。
山県信春は毛利元就によって滅ぼされました。毛利元就という人は、戦国大名の中でも一・二を争う知謀家、策略家です。この壬生城めぐる戦いでも、山県信春の叔父にあたる山県元照(やまがたもとてる)という人を寝返らせ味方につけて攻撃します。そのため壬生城は落城し、信春はこの地で自害します。
ただ、その年がはっきりしません。毛利家の文書には天文5年1536年と書かれています。後に建てられたのであろう、この石碑にも「天文5年8月18日」と彫られ、長くそのように信じられてきましたが、最近の研究ではもっと前のことではないかと言われています。
ちなみに『大朝町史』は永正17年1520年、『千代田町史』は大栄2年1522年のこととしています。
頂上の手前附近には、赤い手すりの階段が伸びています。
この手すりの階段は下の谷を横切って渡るように設置してあります。この谷は、自然に出来たものではなく人工的に掘られた「堀切」とよばれるものです。堀切は敵の攻撃を防ぐためのもので、山城には必ずといっていいほど見られるものです。
頂上に来ました。おりしもツツジやサクラなど春爛漫の風景です。その花群の向こうに千代田地域が一望できます。写真は北の方角、つまり壬生、川西、川東方面を写しています。昔の山城はこのように周辺がよく見える場所を選んで作られました。
ところで、今、「山県」と言うと山県郡全体の広い範囲を指しますけれども、戦国時代の「山県」はもっと狭い意味で使っていました。おそらくこの城からぐるりと見渡せる範囲、あるいはもう少し広くてもせいぜい今の千代田地域くらいの広さを山県と呼んでいました。名前の由来は、この地を支配していた山県氏と関係があるのでしょう。
この山県の地を巡って、近くの武将では毛利氏や吉川氏、遠くでは大内氏や尼子氏などの戦国武将たちが争っていました。この壬生城もたびたび戦場となります。
みなさんもぜひ壬生城に登って群雄割拠していた遠い中世の時代に思いを馳せてみてください。
まちづくりセンターで開催された、峡北館芳名録の写真展「樽床 峡北館を訪れた人々」について紹介します。
出典:『芸北、カメラが語る昭和初期』(芸北町教育委員会 現:北広島町教育委員会)平成15年9月30日発行 101頁
今は樽床ダム(聖湖)の底に沈んでしまいましたが、かつて芸北地域八幡に樽床という集落があり、そこに『峡北館』という名前の宿屋がありました。
峡北館というのは、三段峡の北という意味です。国の特別名勝三段峡は有名な観光地でしたから、全国各地から大勢の観光客でにぎわいました。峡北館は、三段峡を訪れた人たちがゴール地点にある宿屋としてよく利用していました。
※現在、峡北館の芳名録は広島県立文書館が所蔵しています。
峡北館芳名録は、峡北館を利用した人が書いたサイン帳のようなものです。大正13年から昭和32年まで、全部で35冊、5060ページもあります。中には、大変に有名な方も訪れています。今回の展示会では、そのうちの何人かのページを写真で紹介します。
所蔵:広島県立文書館
これは今NHKで放送中の連続ドラマ『らんまん』のモデルとなっている世界的な植物学者牧野富太郎(まきのとみたろう)博士の書かれたページです。牧野博士のものは全部で四ページあります。したがって博士は、少なくとも四回以上三段峡を通って八幡まで植物採取に来られました。その度に、この峡北館で休まれたり、宿泊されたりしました。
昭和12年10月9日に博士は、三段峡で蜂に襲われました。このページには「七ところ蜂に螫(さ)されて腫れあがり、とても記念になりにけるかな」と書かれています。
所蔵:広島県立文書館
これは、軍人ですが、後に軍艦武蔵の艦長となり、フィリピン沖で武蔵とともに沈んだ猪口敏平(いのぐちとしひら)海軍中将の書かれたページです。武蔵は大和型戦艦の2番艦として建造され、その当時世界最大級の軍艦でした。
ただ、時代はもう大型戦艦の時代ではなく、戦闘機を中心とした空中戦に変わっていました。大和も武蔵も、大きな戦果を挙げることなく、米軍戦闘機に襲撃されて多くの兵隊と共に海の底に沈んでしまいます。
猪口さんがここを訪れた昭和10年は、軍艦扶桑に乗っていた頃で、その当時扶桑の艦長だった草鹿任一(くさかじんいち)海軍中将と二人で三段峡を訪れたようです。
所蔵:広島県立文書館
これは、吉田初三郎です。吉田は、京都出身の画家です。画家と言っても鳥瞰図画家です。鳥瞰図というのは、鳥の目になって空の上の高い所から見たらこういう風に見えるであろう、と想像して描く絵です。日本では古くからこのような鳥瞰図が好んで描かれました。
鳥瞰図は正確に描くのではなく、名所とか特徴ある建物や川や谷は大胆に書きます。それ以外の部分は省略して書きます。そのため実際に見た風景とは違います。ただこういう方法で書くことで、その場所の特徴や雰囲気が一目でわかり、位置関係も分かりやすく、絵を見るとぜひ訪れてみたくなるような特徴を持っています。吉田初三郎は、そうした描き手の名手でした。実際に三段峡を描いた作品もあります。
芳名録所蔵先:広島県立文書館 肖像画所蔵先:原東生活改善センター
これは地元の学者として著名な名田富太郎先生です。「夜もすがら 君と語れば露むすぶ 水な田の蛙 鳴きさわぐなり」と書かれています。
名田先生は、山県郡出身の教育者です。また地方史の学者として、地元の歴史を深く研究されて多くの書物を残されました。今日私たちが山県郡や北広島町の歴史を知り得ることができているのは、名田先生の永年の研究成果のおかげなのです。
先生が長く校長先生として勤められた豊平地域の元・原東小学校(現・原東生活改善センター)の講堂には、名田先生の肖像画が掲げてあります。
このように、地元だけでなく全国各地から著名な方が三段峡を訪れ、峡北館に泊まられました。峡北館芳名録の現物は、広島県立文書館に寄贈されましたが、その全てのページの写真は北広島町の伝承館が保管しています。
この峡北館芳名録写真展『樽床 峡北館を訪れた人々』は、令和5年4月12日~5月30日まで千代田まちづくりセンターの南側ギャラリーで開催されました。(現在は終了しています。)
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