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きたひろエコ・ミュージアム 街道をゆく 番外編

印刷用ページを表示する更新日:2020年6月24日更新

3月からきたひろエコ・ミュージアム「街道をゆく」の番外編を作って放送しています。
「街道をゆく」本編の方は、昔の街道と、そこにまつわる歴史や民俗を解説しながら紹介します。
それに対し番外編の方は、あまり人に知られていない山、川、滝などを紹介します。出来るだけ解説部分は短くし、カメラ視線で現場に至るまでの道筋を紹介します。

「きたひろエコ・ミュージアム」はこちらをご覧ください。

上都倉観音堂 (うわつぐらかんのんどう・千代田地域)

都倉山は、千代田地域、丁保余原(ようろほよばら)にある山です。
この山は、丁と保余原の中央に位置し、どちらからでも登ることができます。今回は、丁側の元温泉施設のあった所から登りました。

上都倉観音堂
麓から20分ほどで都倉山に到着です。頂上付近に上都倉観音堂があります。こんな奥深い山の中に、こんな立派な建物があることに驚きます。

本尊の大きな石
この観音堂で、本尊として祀られているのは、この大きな石です。まるで、地中奥深くから突き出てきたような巨石は、大変に変わった形をしています。
千代田町史によると、この観音堂は、安芸国三十三霊場の、11番目の札所(ふだしょ)だったようで、御詠歌(ごえいか)も伝わっています。


うへ見れバ おもひ出もなき 世の中ニ 旅の日頼む 身社安かれ


「上見れば思い出もなき世の中に 旅の日頼む もややすらかれ」とでも読むのでしょうか?意味はよく分かりませんが…
かつて、旧暦7月10日の夜、丁側と保余原側から、松明を持った人たちが昇って、ここで盆踊りをした。それが今日、壬生や南方に残る万灯祭(まんどうさい)の起こりだともいわれています。

都倉山からの眺望
出典: 『山縣郡の展望 第5輯』  撮影: 野田不二仁


今は、植林された木が大きくなって、眺望はよくありません。しかし、今から約100年前に、ここの場所から撮られた写真を見ますと、当時は、たいへんに眺望がよかったようで、ここから壬生、八重、だけでなく蔵迫や本地まで見えていました。

また、この観音堂の近くから、三耳壺「さんじこ」と呼ばれる古備前の壺が出土しました。

三耳壺(さんじこ)の写真

室町時代後期の作といわれています。丁とか保余原という地名もどこか古い響きがします。きっとここは古くから栄えた土地なのでしょう。

万代池 (豊平地域)


今吉田地区は高原で、山が低く、川の水が少ないところです。そのため昔から、農業用水は、ため池に頼っていました。

 江戸時代のため池数グラフ
この表は、『芸藩通志』に出てくる、山県郡内のため池のある村を、多い順に並べたものです。江戸時代から今吉田村のため池の数は、郡内で突出していました。
ただし、ここの万代池は、昭和になって、それも戦後になって新しく作られたものです。ため池としたら、山県郡内で一番大きなものです。
万代池は、ゆっくり歩いても15分ほどあれば一周できます。
湖畔周辺にはキャンプなどのできる施設がそろっています。ここは、非営利活動法人『ひろしま自然学校』が管理しています。

子供たちのキャンプや自然観察、カヌー体験などに幅広く利用されています。

万代池の様子 万代池のようす
撮影: 上田弘子

上の、二枚の写真は、地元在住アマチュアカメラマンの上田弘子さんが、万代池に通って、四季折々の風景を撮影した写真集(1~3巻)の中の写真です。
昨年の10月には、豊平地域づくりセンター主催の『森の学校ごっこ』が、ここで開催されて大変にぎわいました。
万代池の周囲を散策するのは自由ですが、釣りをしたり、池の中や堰堤に入ったりすることはできません。『ひろしま自然学校』(080-4069-0786)へ連絡すれば施設を利用することもできます。

鳴滝 (大朝地域)


鳴滝というのは、ここにある滝の名前であると同時に、地域の名前でもあります。鳴滝というのは、たいへんに古い、つまり早くから開けた場所です。
正和2年(1313)、今から700年前に書かれた「関東御教書(かんとうみぎょうしょ)」という文書があります。

 

関東御教書 

吉川次郎経高申、安藝国大朝本庄内枝村 田原 竹原 大抜 平屋 大塚 妻鹿原 小枝 朝板 鳴瀧 同材木山等地頭職事、訴状如此、早被退彼狼藉人、如元可被沙汰付経高之代、依仰執達如件、

   正和二年四月廿日   相模守(北条煕時) (花押影)

   武蔵守殿(金澤貞顕)
   越後守殿(北条時敦)

 

この中に、「田原、竹原(筏津)、大抜(大貫)、平屋(茅原)、大塚、妻鹿原(女鹿原)、小枝、朝板(朝枝)、と並んで「鳴滝」の名前が出てきます。
しかし、これは有名な偽文書です。といっても、この時代に書かれた文書であることに変わりはありませんし、大朝の各地域が早くから開けた場所であることにも変わりはありません。書いた人が鎌倉幕府第12代執権北条相模守煕時(ひろとき)本人ではないということです。こういう偽文書が、まかり通っていた時代です。

鳴滝
鳴滝という滝は、上の写真の場所が一番よく知られているのですが、実はここから上にまだ滝は続きます。大変に長いウォータースライダーのような滝です。今回は、滝に沿って上まで登ってみます。
上の道まで上がってきました。

鳴滝の上流
この川は、可愛川の源流になります。またこの道は、今はほとんど人が通りませんが、このまま進みますと、高原(たかはら)に出て、そこで石州街道につながり、島根県の市木に越す近道です。
かつては、さぞかし人通りも多かったことと思います。

今田城 (千代田地域)

奥今田にある今田城に登ります。
ここは、こぶしの花でも有名な山です。毎年四月には「こぶし祭」が盛会に開催されますが、今年は新型コロナウイルスの影響で中止されました。
今田城
この城は、中世この地を支配した今田氏の居城です。ふもとには、広島県の文化財に指定されている城館遺構も残されています。
10分ほどで、頂上につきました。この城跡からは、千代田地域の今田、有田、後有田が一望できます。また壬生城、有田城、寺原城、日山城も遠望できます。
今田城から見た有田城と須倉城
この城が歴史の表舞台に立つのは、今から500年前の永正14(1517)年の有田合戦です。
安芸国の守護大名だった武田元繁が、山県に攻め込んできます。それを迎え撃つ毛利・吉川連合軍と、有田城の下で激しい戦いになります。
その時に武田軍が陣地を置いたのがこの今田城です。
戦いは数的優位だった武田軍が有利とみられていましたが、実際に戦いが始まると一進一退でなかなか決着がつきません。
業を煮やした武田元繁は自ら馬に乗り「我に続け、者ども」と先頭に立って攻め込むところを、毛利側から放たれた一本の矢が元繁の胸に命中し、元繁は馬から真っ逆さまに又内川に落ちました。そこへ毛利側の井上左衛門尉という武士が走り寄り、元繁の首を切り落とし、自らの刀の切っ先に首を刺して高く掲げ、「日頃、鬼神の如く恐れられし元繁殿を井上左衛門尉討ち取りたり」と大声で叫べば、吉川・毛利の軍勢は一斉に勝ち鬨を挙げ、一方武田側は総崩れになり…
まるで「見てきたような嘘をつく」講釈師のようですが、これは『陰徳太平記』の受け売りです。本当にこの通りだったかどうかは知りません。
今はこんな美しい風景の広がる平和な里ですが、500年前には多くの血の流れた壮絶な戦いがあったことだけは事実です。

中野冠山 (芸北地域)


芸北地域の才乙にある冠山に登ります。
冠山という名前の山は、あちこちにたくさんありますから、ここは中野冠山と呼ばれています。島根県との県境にある、標高1003mの山です。
中野冠山全景
才乙の読み方は、「サイオト」ですが、地元の人は「サヨート」もしくは「サヨーツ」と云います。
田植え歌に「一つ落ちつる さようつ山の早生栗」というのがありますが、ここで歌われている「さようつ山」というのは、今回登る中野冠山のことかもしれません。
休憩を挟みながらですが、約1時間で頂上まで登りました。途中の道沿いには、目印の赤いリボンがところどころの木に結び付けられているので迷うことはありません。
ここに登りますと、周囲の風景がぐるりと見渡せます。真下に才乙の集落が見えます。
東の方向には、スキー場のある高杉山、天狗石山、阿佐山が、反対方向には雲月山が見えます。南西の方向には、掛頭山、臥竜山が、さらにその先には、深入山、恐羅漢山、十方山が見えます。
最近は山の手入れをしなくなったので、どこの山も木が茂って、眺望の良い山というのは少なくなりましたが、ここは大変に見晴らしの良い山です。ここから少し北側にある一兵衛山家に縦走することもできます。
西中国山地の中でもおすすめの山です。

中野冠山頂上

小倉山城 (大朝地域)

大朝地域、新庄にある小倉山城は、戦国武将、吉川氏の居城です。
ここに登るには、南側コースと北側コースがありますが、今回は、南側コースのショウブ園側から登ってみました。
小倉山城跡パンフレット

吉川氏というのは、元々は駿河国、今の静岡県にいた武士ですが、14世紀の初めごろに大朝にやってきます。最初は、大朝の駿河丸城に入りますが、四代吉川経見のときに、ここに小倉山城を築きます。
以来、十代興経までの7代170年にわたってここが吉川氏の居城になります。
小倉山城跡
写真は、頂上の見張櫓が置かれていたところからの眺めです。ここから見ますと、千代田、大朝、芸北の山脈が美しいシルエットとなって見えます。
十代吉川興径の時代は、山口に大内、島根に尼子という強力な戦国武将がいて、広島の武士たちはその両勢力に挟まれる形で翻弄されていました。
吉川興経は、小倉山城を出て、ここから南へ4kmほど下った、大朝と千代田の境にある火野山に城を作りそこに移ります。
しかし、吉川興経は毛利によって殺されます。その後には、毛利元就の次男、元春が養子として火野山城に入り、吉川氏を引き継ぎます。
群雄割拠、弱肉強食、権謀術策うず巻く戦国時代の話です。

天狗滝 (豊平地域)


『国郡志御用ニ付キ下調書出帖 中原村』の中に、「當平山の麓に、高さ七間の天狗滝と呼ばれる滝があり、その近くには兜に似た兜岩という岩がある」と書かれています。今回はその滝と岩を捜しに行きました。

天狗滝
ちなみに、天狗滝という名前の謂れは、昔、この滝の上に大きな松の木があったそうですが、あまりにも大き過ぎて誰も切り出すことができなかった、そのため天狗松と呼ばれていたようです。天狗松の下にある滝だから天狗滝です。天狗松の方はとうの昔に枯れてしまいましたが、滝の名前に残りました。


ところで當平山という名前の山ですが、『藝藩通志』の地図には確かに「當平山」が書かれています。
しかし、今そんな名前の山はありません。『藝藩通志』の地図と今の地図に合わせると、當平山とは椎谷山のようです。
今回は、椎谷山の麓の湯川谷から川に沿って上ってみました。途中の道はずいぶん荒れていましたが、10分ほどで、すぐに滝を見つけました。
7間というと、12~13mです。そこまでの高さはないようですが、なかなか見事な滝です。

兜岩
兜岩も探しましたら、滝の左上にすぐ見つかりました。たしかに兜の形をしています。岩の上に乗っているだけなのに、よくこれまで落ちなかったものだと思います。

壬生城 (千代田地域)


壬生にある壬生城に登りました。
壬生城 二の丸入り口
この城には、壬生の町側から登る方法と、運動公園側から登る方法とがあります。今回は、運動公園側から登りました。
こちらの方が、登山道が整備されていて、15分程度で誰でも簡単に登ることかできます。最後は、赤い手すりの階段が迎えてくれます。この階段は城の掘割に架けられているようでこれを登ると二の丸です。
壬生城は、「鵺(ぬえ)退治」で有名な源頼政の孫にあたる山縣為綱が作ったといわれていますが真偽は不明です。

壬生城

頂上には神社があります。
ここから周囲を見渡しますと、千代田地域の川西、川東、壬生、八重、本地方面など幅広く見渡すことができます。こんなに眺望の開けた山というのもなかなかありません。お薦めの場所です。

鎧滝  (芸北地域)

鎧滝
芸北地域雄鹿原にある鎧滝です。滝のある場所は、昔の村名で言うと橋山村です。かつては橋山の吉見坂から川伝いに登っていくしか行く方法がありませんでしたが、今は大規模林道の『桜広場』から降りて行けるようになりました。
20分くらいで鎧滝に行きます。ただ気をつけなければならないのは、滝まで降りる道に設置してある木製の手すりが朽ちていて、力をかけるとポキッと折れてしまいそうです。怪我をしてもいけないので、杖などを用意して、手すりは最初からあてにしないようにしましょう。

100年前の鎧滝
出典: 『芸北、カメラが語る昭和初期』(芸北町教育委員会 現:北広島町教育委員会) 撮影: 野田不二仁


この写真は、今から100年前に撮影された鎧滝です。
当時と比べても、水量や滝の形に変化はありません。昔のままです。
ただ、その当時は滝の下に小屋が設置してありました。ここで、心ゆくまで滝を鑑賞したのでしょうか。風流な時代でした。

 


お問い合わせ

千代田地域づくりセンター(旧:千代田中央公民館)
〒731-1533 広島県山県郡北広島町有田1220番地1
IP電話 : 050-5812-2249      Tel: 0826-72-2249   Fax: 0826-72-6034

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