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きたひろエコ・ミュージアム 街道をゆく 番外編2

印刷用ページを表示する更新日:2021年9月17日更新

3月からきたひろエコ・ミュージアム「街道をゆく」の番外編を作って放送しています。
「街道をゆく」本編の方は、昔の街道と、そこにまつわる歴史や民俗を解説しながら紹介します。
それに対し番外編の方は、あまり人に知られていない山、川、滝などを紹介します。出来るだけ解説部分は短くし、カメラ視線で現場に至るまでの道筋を紹介します。

「きたひろエコ・ミュージアム」はこちらをご覧ください。

武一騒動(千代田地域)

今年は、明治4年(1871)に広島県で起きた大一揆、「武一騒動」からちょうど150年目に当たります。そこで、今回は、千代田地域にある武一騒動に関係ある場所を訪ねてみます。
武一騒動という名称は、この一揆の首謀者とされた、千代田地域有田の百姓、森脇武一郎からきています。屋号が西本屋なので、西本屋武一郎ともいいます。また、山県郡の武一郎という意味で略して山県武一ともいいます。

広島城下
武一騒動の最初の騒ぎは、広島城下で起きました。
明治4(1871)年8月4日の朝、広島藩の前藩主だった浅野長訓(ながみち)が東京に行くために籠に乗って広島城を出たところを、県内各地から集まってきた大勢の百姓に取り囲まれ、「どうか東京に行かないでください」と止められました。結局、長訓一行は、その日、東京に出発することができませんでした。
この日、広島城下に集まった百姓は数千人とも数万人とも言われています。はっきりとした人数は分かりませんが、山県郡の百姓が多かったようです。しかし、この8月4日は、暴動にまでは至りませんでした。

広島城下(入澤良枝 絵)

暴動の始まり
最初の暴動は、それから5日後の8月9日、壬生村で発生します。
広島県から派遣された役人が、手分けして県内各地の村々に出かけ、「広島城下に集まらないように」、「前藩主浅野長訓一行が広島から東京に無事に出発できるように」と百姓を説得するためにやってきました。
壬生村で、百姓たちへの説得が終わったので役人たちが帰ろうとしたとき、久助という百姓が急に立ち上がり「自分は、今夜の説明にどうしても納得がいかない」と大きな声で叫びました。驚いた役人たちは、久助に向かって、「お前一人だけそこに残っておれ、他の者は帰れ」と言ったところ、久助は「これは私一人の思いではない。ここにいる百姓全員の思いだ」と反論しました。これをきっかけに百姓たちが騒ぎ始め、中には武士に竹槍を向ける者も出て来たので、武士たちは身の危険を感じて慌ててその場から逃げ去りました。さらに、場所は分かりませんが、一人の武士が竹槍で突かれて大ケガをする事件が発生します。
ここ壬生村から始まった騒ぎは、またたくまに広島県内各地へ飛び火して大騒動に発展します。

暴動の始まり(入澤良枝 絵)


上本家(石橋家)にて
千代田地域の有間にある、通称「上本家(かんもとけ)」と呼ばれる屋敷です。ここらあたりの庄屋を勤めた石橋久兵衛の屋敷です。
この建物は、江戸時代の民家の形式をよく残しているので、現在、北広島町指定の重要文化財になっています。

上本家1 上本家

柱に切り傷がついています。これは、武一騒動の時に、大勢の百姓が手に手に鎌や鉈を持って振り回した、その跡です。壁にはひっかいたような傷跡もあります。これは、竹槍で突かれた跡だと言われています。
この石橋家が襲われたのは、先の壬生村の騒ぎから三日後の8月12日のことです。
こうして次々と山県郡内の庄屋が襲われます。家が倒され、家具は壊され、火をつけられました。

上本家3(入澤良枝 絵)

有田大福寺にて
有田の大福寺にやってきました。ここに、この一揆の首謀者とされた武一郎の墓があります。側に説明版が建てられています。

大福寺1大福寺2

この写真は大正七年発行の山県郡写真帳に載っている武一郎の生家の写真です。武一郎の家は、このお寺の真ん前にあったようです。

大福寺3
出典:熊南峰撮影 『山県郡写真帳』、広島県自治協会山県郡支会、大正7年

一揆の収束
この事件はやがて広島県から派遣された兵隊によって鎮圧されます。その後、広島県内574名の百姓が一揆を扇動したとして捕らえられ処罰されました。
その内、死刑になった者は9人です。当時は、同じ死刑でも、重いものと軽いものがありました。一番重い死刑は、鳩首(きゅうしゅ)といって、処刑後、晒し首にするものです。この一番重い鳩首という死刑になったのは、首謀者とされた武一郎ただ一人です。
しかし、これだけの大一揆なのに、この武一騒動というのは未だによくわからないことがたくさんあります。
そのうちの一つ。百姓たちをこれほどまでに怒らせたものは何だったのでしょうか?またなぜ庄屋が襲われたのでしょうか?
これについては、江戸時代から明治へと世の中が急激に変化する中、人々はこれから自分たちの暮らしは一体どうなるのだろうかと、大変に不安な心理状態にありました。またその前年の凶作で、人々は飢えに苦しんでいました。そんな中、さまざまなデマや噂話が飛び交いました。
例えば、庄屋が藩から飢饉対策として戴いた米を自分のものにしているとか。村の若い娘が外国に売られることになり、その娘の名前を書いたデコ(人形)を庄屋が隠し持っているとか。そういうデマに惑わされた人々の過激な行動だったと言われています。

 

龍頭山(豊平地域)

今回登る龍頭山は、豊平を代表する山です。高さは928.4m 『苦にはしない』と覚えてください。
ここに登るには、いくつかのルートがあります。下から歩いて登ると、2時間くらいかかります。中ほどにある滝の上駐車場からでも1時間くらいかかります。自動車道が整備されていますので、頂上付近の駐車場まで来ることができます。今日はここから出発します。ここからだと、15分くらいで登ることができます。

龍頭山
出典:大島邦淸撮影『廣嶋縣 山縣郡寫眞帖』 、廣島縣山縣郡斯民會、大正7年、55頁

この写真は、大正7年、つまり今から100年前に撮影された龍頭山です。おそらく龍頭山を写した今日残る一番古い写真だろうと思います。

写真の説明には、
「都谷、原二村に跨り(またがり)前龍頭、後龍頭の二山あり。後龍頭は海抜三千六十三尺、郡内屈指の高峰にして眺望絶佳。南方を望めば廣島湾目睫の間(もくしょうのかん)にあり。厳島、江田島の諸島は手に取るが如く。波涛(はとう)を蹴破る(けやぶる)汽船の煙をも視ることを得。眼を転ずれば苅尾、十方等の高峰は言ふも更なり。東方遥に三瓶、大山等の名山をも眺め得。自ら雄大の気風を養ふに足るものあり。之に登らんとするには春好く、夏好く、秋亦佳。雪中登山も中々に面白し。有名なる駒ケ滝は前龍頭の中腹に懸れり。前面より登山するを順路とすれども、一方、原、中原よりも登り得べく。亦西宗よりも登るを得るなり。都谷、原の二村に跨り前竜頭、後竜頭の二山あり、後竜頭は海抜3063尺、郡内屈指の高峰にして眺望絶佳」
と書かれています。(『廣嶋縣 山縣郡寫眞帖』、55頁)

「海抜3036尺」についてですが、1尺は、30.3cmですから、3063尺は計算すると928メートルになります。つまり、今と一緒です。

眺望


15分ほどで頂上に着きました。目の下に豊平地域が大変によく見えます。下に、都志見、真下に豊平学園が見えます。
ここに登りますと、西中国山地の山、それから遠く瀬戸内海に浮かぶ厳島、似島まで見えます。
眺望のいい山というのは、今は少ないのですが、ここは360度、大変によく見えます。休憩に使う東屋も最近整備されて、新しくなりました。
ぜひ、皆さんも、龍頭に登ってみてください。今日のコースなら、小さい子供さんでも十分登れます。

 

古保利薬師(千代田地域)

今回は、千代田地域の運動公園にあるアザレアから古保利古墳群の中を通り、古保利薬師まで歩こうと思います。
15分ほどで、古墳のある所に着きました。
ここらあたりは、古保利古墳群と呼ばれているところです。ここには5世紀~6世紀ごろに作られた、大小50基あまりの古墳が集まっています。しかし、これらの古墳はまだ発掘されていません。
ただここの古墳群の中で一つだけ、昭和50年(1975)に、国道のバイパス工事で壊されることになったために発掘された第44号古墳とよばれる円墳があります。

古墳1  鎧
出典:龍岩・古保利埋蔵文化財発掘調査団『龍岩・古保利・上春木埋蔵文化財発掘調査報告書』 、1976年
    (左図)図版第10-A、(右図)図版第10-B


この44号古墳からは、挂甲(けいこう)と呼ばれる鎧が出てきました。鉄でできた小札(こざね)と呼ばれる小片を革で結んで作ります。これは、当時、こうした挂甲を着た武人のイメージ図です。

武人イメージ
挂甲をまとった武人のイメージ図 (画:入澤良枝)


その他、須恵器と呼ばれる土器類もたくさん出土しました。
これらのことから、ここら辺りには5世紀ごろという早い時期に、かなりの大きな勢力を持った豪族が住んでいて、ここらあたりを支配していたことが分かります。

古保利薬師堂に来ました。
ここらあたりは、奈良時代から平安時代にかけて、山県郡の中心地でした。その当時、ここらあたりを支配していた豪族は、凡(おおし)氏といいます。ここは元々福光寺という凡氏の菩提寺だったようですが、その後、吉川氏の祈願所になります。
しかし吉川氏がこの地を去ると無住の寺となって衰退していきましたが、地元の人たちの努力によって守られてきました。
今回特別にお願いをして、カメラを中に入らせてもらいます。

薬師堂  

ここにある仏像の内、12体が、国の重要文化財の指定を受けています。これらは平安時代の仏師によって彫られたもので、大変に優れたものです。これだけの優れた仏像が、京都から遠く離れたこの山奥の地に当時の形のままにたくさん残っているというのは、大変に珍しいことです。

薬師如来像  仏師
(左図)木造薬師如来像(国指定重要文化財)
(右図)出典:三宅昭典編著『回想の古保利薬師』 、㈱正文社印刷所、昭和60年、106頁


この仏像群の中心にあるのが薬師如来像です。
実にふっくらとした、暖かみのある表情です。特に、この人々の苦しみも悩み全て受け入れて癒してくれるような大きくてふっくらとした右手が魅力的です。
ところが、有田出身の歯科医、三宅昭典氏の書かれた『回想の古保利薬師』という本を読んでみますと、大変に驚くべきことですが、この右手部分だけは、早くから朽ちて無くなっていたのを、後から、それも昭和の戦後になってから、奈良県の仏師で白石義雄さんという人が、この仏像のイメージに合わせて作られたものだそうです。
こうしてみますと、平安時代に作られた本体部分と全く違和感がないつくりになっていることに驚かされます。というか、むしろこの全てを包み込むような温かい右手によって、仏像全体に新たな生命が吹き込まれたような気がします。

この古保利薬師堂収蔵庫に入るのには300円の入場料がかかりますが、一見の価値がある仏像だと思います。ぜひお出かけください。

 

お仙ケ淵(豊平地域)

今回歩く場所は豊平地域の吉木です。西宗川と吉木川が交錯するあたりです。

最初に、この写真を見てください。
お仙ヶ淵写真帖    豊平診療所
出典:熊南峰撮影『廣嶋縣 山縣郡寫眞帖』
廣島縣自治協會山縣郡支會、大正15年、52頁


左の写真は今から100年ほど前に撮られたものですが、ここらあたりで撮られたもののようです。写真には「お仙ケ淵」と書かれていました。
また右の写真は、豊平診療所に架けられている、二紀会の福長弘志先生の描かれた絵で「流れ」という題がつけられています。これも、同じお仙ケ淵を描いたものです。
今回は、この写真に撮られ、絵にも描かれたお仙ケ淵を捜しに行きます。

その前に、ちょっと寄り道します。この写真は西宗川です。

西宗川
川の向こう側の岸を見てください。小屋の左に洞穴があって、水の一部が洞窟内に勢いよく流れ込んでいます。あれは、この西宗川の水の一部を、トンネルを掘って反対側の吉木川に流し、水量を増やして水力発電に使うための取水口です。
ではこの水を受ける吉木川はどうなっているのといいますと、この写真を見てください。これは吉木川です。

吉木川
先ほど西宗川で取水した水は約500mのトンネルを通った後、ここで下から湧きあがり、この水路を通って、向こう岸に渡ります。そして向こう岸で、吉木川の水と一緒になります。下には吉木川の本流が流れています。
つまり、ここは水路の立体交差になっています。道路の立体交差というのはよく見かけますが、水路の立体交差というのは珍しいと思います。
発電所まで来ました。二つの川の水を集めた水がここで道の下に落ちてタービンを回す仕組みになっています。これは、この下にある小水力発電所です。七曲発電所(豊平発電所)といいます。
発電所
この発電所は昭和27年に作られたといいますから、今年で70年にもなる古い水力発電所ですが、今も現役で働いています。最近、二酸化炭素も出さず、自然にもやさしい、こうした小水力発電の良さが見直されてきています。

では、あらためて先ほどの写真の場所を探しに行きます。

町道から川まで降りてきました。大きな淵の前に来ました。先ほどの「お仙ケ淵」の写真や絵は、この場所を撮影したり描いたりしたもののようです。
お仙ヶ淵
名前の由来は、昔、このあたりに住んでいたお仙さんという若い女性が、自分の子どもと一緒に心中したという悲しい伝説に基づきます。
先の『山縣郡写真帖』には
「吉坂村七曲西宗川に梢蔭凄の気力漂ふ深淵あり、お仙ケ淵と言ひ伝ふ、昔お仙なる薄倖なる女あり、事情ありて究極身を處すべき方法なく、自殺を決して先づ愛子を上淵に投じ下淵に流れ来るを待って自ら其身をも亡ぼせし哀話を残せり、春秋幾千年、本帖之を弔してその霊を慰む」
と書かれています。(52頁)
しかし、この話は他の資料で確認することはできません。言い伝えとして残っているだけのようです。
ここらあたりは険しい山ばかりですから、そんなに人がたくさん生活していたとも思えません。この話が本当の話かどうかも分かりませんが、仮に実際にあった話だとしても、もう何百年も前の古い話だろうと思います。
この上流には、中世に、一時期「溝崎(こうざき)たたら」とよばれるたたら製鉄があったといいますから、もしかしたらそれと関係ある話かもしれません。

いずれにしても、ここはせっかくのすばらしい風景があり、特に紅葉のシーズン等はベストだろうと思うのに、哀しい伝説の名が付けられたために損をしているような気がします。
皆さんも、ぜひ、哀しい話は一時忘れて、この美しい淵を見にきてください。

 

聖湖周辺(芸北地域)

今回は、芸北地域八幡の聖湖周辺を歩きました。
出発は、聖山登山口から始めました。積雪は約1mです。除雪もされてなくて、足が埋まるので初めて「かんじき」を履きました。「かんじき」初デビューです。
この日は雲一つない晴天で、朝は放射冷却のためマイナス15度くらいまで下がりました。八幡地区ではダイヤモンドダストが見られたといいます。

聖湖
これは出発地点の写真です。雪に映る木漏れ日がバーコードのようです。
中央遠くに臥竜山が見えます。その前に広がる平地は聖湖です。聖湖は完全に凍っていて、氷の上が歩けるのではと思うほどです。

この湖の下には、かつて樽床という集落がありました。今から64年前の昭和32年にダムの底に沈んでしまいました。この写真は、ダムに沈む前の樽床の風景です。ダムに沈む前、ここには、73軒の家と、388人の生活がありました。

樽床
出典:『重要有形民俗文化財「樽床・八幡山村生活用具および民家」保存修理工事報告書』
   北広島町教育委員会生涯学習課、2019年、資料6頁

堰堤の端の中国電力のダム管理棟事務所まで来ました。
昭和36年12月28日。広島学院山岳部の先生と生徒15名が、この近くにある聖山から中之甲に入り、夏焼峠を越して恐羅漢側に越そうとしました。しかし入山した日から大雪になり、引き返す途中で遭難します。彼らの内、比較的体力のあった三人が大雪の中を這いずるようにして助けを求めたのが、この建物でした。当時、この建物には本社と連絡するための無線機があって、それが遭難の第一報を知らせました。結局、15人の内、1人の生徒が亡くなるという悲惨な結果になりましたが、他の先生と生徒は、八幡から急遽派遣された救援隊によって助けられました。
その翌年の豪雪で八幡地区が孤立した時、広島学院の先生、生徒、保護者が恩返しにとカンパを出し合い、八幡地区に救援物資を送りました。
これは、その時のことを伝える「広報げいほく」の写真と記事です。見出しには『聖山遭難に咲く友愛』と書かれています。

広報げいほく
出典:昭和37年3月号「広報げいほく」

雲一つない天気で、真っ白な雪と真っ青な空のコントラストがとても感動的でした。
ただ、たまたまこの日は好天気でしたが、山の天候は変わりやすいし雪道は危険なので、冬にこのコースを歩くのは止めた方がいいかと思います。温かくなってからぜひお出かけください。

取材風景

 

俵原(芸北地域)

今回は、芸北地域の俵原(とうらばら)を歩きました。
俵原というのは芸北地域苅屋形から雄鹿原の荒神原へ抜けるまっすぐな道です。
この写真を見てください。これは、大正7年つまり今から約100年前に撮影されたここ俵原の写真ですが、その時も今と同じようにどこまでもまっすぐな道が続いています。

約100年前の俵原
出典:大島邦淸撮影『廣嶋縣 山縣郡寫眞帖』 、廣島縣山縣郡斯民會、大正7年、23頁

上の写真は、山の形からして、おそらく荒神原側から苅屋形側を写したものと思います。たぶん、ここが撮影ポイントだろうと思われる同じ場所に立って写してみました。

俵原


100年前に比べると、当時は草原だったところに立木が生えて大きくなり、さらに両側には電柱が並びやや風情を壊しています。しかし、どこまでも続くまっすぐな道は昔も今も変わりません。

雄鹿原の亀山八幡神社まで来ました。
文化8年(1811年)といいますから、今から200年以上も前のことですが、石見国津和野藩の国学者で、岡熊臣(おか くまおみ1783~1851)という人がいました。
彼は、島根県を旅していた時に、安芸国岡原(雄鹿原)で大花田植か行われているという噂を聞き、わざわざ今市から、俵原を通って雄鹿原まで来ます。そして初めて大花田植を見て、そのあまりにもの派手な飾り付けにびっくりします。

岡の書いた日記『若葉の雫』に、その日、大花田植を見ての感想が書かれています。

「廿八日 けふは田植見むとて、今市といふ所より安藝の国岡原といふ里へゆく。いとめづらかなる見ものなり。田植女の四十人ばかり、菅笠の上に牡丹・芍薬やうの色々の造花さしたる着て、紅の手繦かけ、なえばみたれど、着物・前垂など皆今様の大かたすりたるに紫の上帯しつつ、同じやうに出で立ちたるに、若き男の十五六人ばかり、これも同じさまに出で立ちて、笠の上にはえもいはぬをこのものなどとりつけ、あるはをかしくことやうに眉つくりなどして、太鼓・笛・手拍子・ささら・三線などしらべあはせて、歌うたひつつ早苗植ゑ挿せるなり。又代かきとて、牛の額にあかねの木綿にて大なる紐を結びつけ、顎にも帯のごときもの巻きて、背中に鞍を置き、その上に赤き青き紙して幣の如きものあるは、幟・吹貫、又は松竹・鶴亀・人形のやうのものをさしたるが、風にひらめきみだれあひて十四五疋ばかり…(以下略)」
出典:加藤隆久編『岡熊臣集 下 -神道津和野教学の研究-』、国書刊行会、1985、630頁

これはその原文ですが、前半部を現代文に訳してみます。

四月二十八日 今日は、田植えを見ようと今市から広島の岡原(雄鹿原)に行く。大変に珍しいものを見た。早乙女が四十人ばかり、菅笠の上に牡丹や芍薬などの色々の造花をさしたものを被り、真っ赤な手拭をかけ、着慣れたものだけれども、着物や前垂れなどは最近流行りの大きな模様に染めたものを着て、その上に紫の帯をして、全員が同じような格好をして立っている。(以下略)

この日記を読みますと、岡熊臣は、まず身に着けているものの色の鮮やかさに驚いています。
江戸時代というのは人々の生活の中に色の種類は多くなかったのでしょう。特に農村社会では、日常使う道具や着ているものは、紺色とか茶色とかの地味な色が中心でした。ところが、目の前で演じられたのは、赤や黄色であでやかに着飾った早乙女たちの踊りでした。その華やかさに驚いたのでしょう。
次に、岡は、踊りや歌詞の卑猥さに驚き、「あまりに聞き苦し」と酷評しています。当時の大花田植えの性格を垣間見る思いがします。


花田植
出典:熊南峰撮影『廣嶋縣 山縣郡寫眞帖』、廣島縣自治協會山縣郡支會、大正15年、32頁


この写真は、今から100年くらい前の、ここ雄鹿原で演じられた花田植えの写真です。
この写真の撮られたのは1926年。岡熊臣が、ここで大花田植を見たのは、それよりもさらに100年前の1811年です。
北広島町では、大花田植えは今も昔の原形を保ちながら(一部は洗練されて)今日まで続いています。そして、県、国、ユネスコ指定の伝統的民俗芸能として高い評価を得ています。

ほとけばら遊園(大朝地域)

ほとけばら遊園

 今回は、大朝地域間所にある「ほとけばら遊園」に来ました。

 この「ほとけばら遊園」というのは、元々、この近くに住んでいたある方が、お一人で作られたものです。石段を一つずつ積み上げ、紅葉の苗を一本ずつ持ってきて植え、仏像なども一基ずつ据えて、こうした紅葉の美しい公園として整備されました。約40年かけて作り上げられたといいます。

ところで、民俗学者として有名な宮本常一は周防大島の出身ですが、この公園を作られた方とは縁戚関係にあたり、度々この地を訪れています。

宮本の初期の代表作の『村里を行く』にも、ここに泊まって見聞きしたことが書かれています。その一部を紹介します。昭和14年頃の大朝の風景です。

(前略)大朝の町もまた出羽田所の盆地と大してかはらぬ景觀の地だが、唯北に寒曳山といふやや形のととのった圓錐の山を控えて風景を引き締めている。そしてこの町は廣島から濱田への省営バスも通って交通も便利である。ささやかな町だけれども山の港といった感が深い。
(中略)
大朝について四日目、即ち十一月二十六日の夕方、こわれた時計をなおしに町まで出た。町へは十町ほどもあらうか、雪のぬかるんだ道を歩いて行くと白い田甫に眞黒になって烏が下りている。何となくなつかしくてホウホウと追って見た。すると烏の群れはどっとたって、雪が晴れて靑くすんだ夕の空へ舞上ってカアカアと鳴いた。私の故郷にもこの鳥が多かったが、近頃殆ど見かけなくなってしまった。(後略)

引用: 『村里を行く』(発行:三國書房) 224・225頁
※ 十町とは約1km

この公園は、私有地ですが、一般公開されていますので、誰でも楽しむことができます。

紅葉の美しい時期(10月終わりから11月の初め頃)に、ぜひ多くの人たちに訪れてほしいと思います。

 

加計山 (大朝地域)

今回は、大朝地域の茅原(かいわら)から出発して、大朝地域と豊平地域の境にある加計山(標高782m)に登ります。
写真は、大朝の町から見える加計山です。頂上にアンテナが数本見えます

大朝地域内から望む加計山

この地図を見てください。
これは、江戸時代に、伊能忠敬の測量隊の別動隊が、文化8年(1811)と文化10年(1813)の二回、この地を測量した資料を元に、描かれた大朝地域の地図です。
赤枠が伊能図に書かれている山の名前で、青枠が現在呼ばれている山の名前です。

大朝地域の古地図
出典:国土地理院ウェブサイト


ここに、寒曳山と、加計山、それに雉子の目山が描かれています。伊能図というのは道の方向や距離は正確ですが、山の位置や名前はかなりいい加減です。山を調べるのは目的ではなかったということでしょう。山の名前の表記も今日とはずいぶん違います。雉子の目山(木地面山)に至っては、二つも描かれています。
また加計山には、大蛇(おろち)伝説があります。だいたい、大蛇伝説の残る山というのは、その昔、大きな土石流災害の起きたところに多いようですが、この山がそうだったかどうかは知りません。

加計山眺望_大朝方面 加計山の眺望 
頂上に上がると、新庄から大朝、大塚、田原、筏津と、大朝地域のほぼ全域がよく見えます。正面には、大朝地域を代表する寒曳山が見えます。
この加計山には、アンテナが建てられているために、その保守・点検のための管理道が整備されています。頂上まで、車で上がることもできますから、ぜひ一度登ってみてください。

撮影の様子

(撮影小話)
今回、アンテナ直下の撮影です。もし不都合が起きたらいけないので、無線マイクを使わずに、有線マイクを使いました。そうしたら長い線があちこちに引っ掛かってまともに歩けません。かといって線を手に持って歩くわけにもいかず、結局、何度も何度も取り直しになりました。写真は足にまとわりつくマイクの線に苦労している筆者です。

高嶺城 (千代田地域)

今回は、以前放送した番組(第二回目「壬生城」)で、間違ったことをお伝えしましたので、訂正をしてお詫びします。
千代田地域の壬生城を紹介した時に、「壬生城は別の名前を高嶺城ともいう」と説明しました。
(ホームページでは既に訂正済)
しかし、その後、いろいろと調べていましたら、二つの城は全く別の城であることが分かりました。

壬生城と高嶺城の位置
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。

壬生の街にあるのが壬生城で、そこから約700m北に行った梅ノ木という所にあるのが高嶺城です。ちょうど運動公園から出た道と、県道69号線とが交わる辺りにあります。

壬生城 高嶺城

萩藩閥閲録の背表紙 萩藩閥閲録の文書抜粋
出典: 『萩藩閥閲録』(山口県文書館所蔵)背表紙と37頁一部抜粋


では高嶺城の城主は誰かといいますと、『萩藩閥閲録』第三巻の中に、井上元光という人が、天文20年12月21日に毛利元就から、「芸州高ノ峯城預成され」と書かれています。ここに書かれている芸州高ノ峯城というのが、この高嶺城のようです。
高嶺城一帯は私有地なので、今回は持ち主の許可をいただいて取材させてもらいました。
頂上は、木が茂っていて周囲が見えにくいのですが、もしこの木がなかったら、ここから、壬生、川西、川東方面が一望できる絶好の場所です。あまり大きな城ではなかったようですが、位置的にはここらあたり全体が見通せる、攻防の要所だったことがよく分かります。

高嶺城跡の写真

今回は、壬生城と高嶺城は別の城であることを確認する旅でした。間違ったことをお伝えしたことをお詫びします。

大丸峯(豊平地域)

今回は、豊平地域、長笹にある大丸峯に登ります。標高778mの山ですからそれほど高い山ではありませんが、登り口の標高が380mですから、比高は400mくらいになります。結構、登るのがしんどい山です。ちなみに、標高というのは海面からの高さ、比高というのは登り口からの高さです。

国郡志長笹村に「大丸峯 一名小芙蓉とも申候」と書かれています。

国郡志長笹の画像 
出典:『国郡志御用ニ付下調べ書出帖』 長笹村 一部抜粋

芙蓉というのは、富士山のことですから、小芙蓉というのは富士山によく似た山という意味です。
確かに、遠くから見ると円錐形の美しい山です。
下の写真は、吉木簾から見た大丸峯です。大丸峯は中央に見えます。

吉木 簾峠から見る大丸峯

登り始めて20分くらいのところに、「米軍機風防落下地点」という小さな立札があります。
風防落下地点の立札
今から46年前の、昭和49年7月2日の中国新聞記事に米軍機風防落下事故のことが書かれています。記事を見ますと、2メーターくらいの大きな風防が、この場所に落下してきたようです。民家にも近い所ですから大変に危ない話です。また、米軍機もこんなものを落としたまま飛んで、よく墜落しなかったものだと思います。

休み休み歩き、約1時間半かけ頂上に登りました。周辺の木が伐採してあるので、頂上からは東側の風景がよく見えます。

大丸峰からの眺望

すぐ麓に長笹の里が見えます。遠くには豊平、千代田、広島市方面の山、龍頭山、野々志山、城山、猿喰山、海見山、堂床山、牛頭山などが一望できます。
皆さんもぜひ、大丸峯に登ってみてください。秋の紅葉シーズンがベストかと思います。

 


お問い合わせ

千代田地域づくりセンター(旧:千代田中央公民館)
〒731-1533 広島県山県郡北広島町有田1220番地1
IP電話 : 050-5812-2249      Tel: 0826-72-2249   Fax: 0826-72-6034