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きたひろエコ・ミュージアム 平成30年2月

印刷用ページを表示する更新日:2019年3月19日更新

街道をゆく
  『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)』の古戦場を巡って (千代田地域 寺原から今田)

寺原十二段滝

旅の出発地点(寺原十二段滝 この山に余谷城があった)

 今から約700年くらい前の、観応元年(1350)に、『観応の擾乱』と呼ばれる戦いが全国各地で起こります。この千代田地域でも、寺原から今田にかけて大きな戦いがありました。今回は、その古戦場を巡る旅です。


 この『観応の擾乱』というのは、南北朝時代に起きた戦いです。南北朝時代というのは、朝廷が南と北に分かれて戦ったのですが、北朝側についた、室町幕府も、足利尊氏側と足利直冬側に分かれて戦っていました。ちなみに、この足利尊氏と足利直冬は、尊氏が父で、直冬が子ども。つまり親子です。その当時は、親子や兄弟でも戦争をしました。

南北朝時代の観応の擾乱

 北広島町は、その当時の日本の中心地である京都・奈良からはずいぶん離れていますが、この地域でも、足利尊氏側と、足利直冬側に分かれて『観応の擾乱』が戦われました。
 千代田地域にいた国人衆、山形氏、寺原氏、それから吉田の毛利氏などは足利直冬側で、寺原城、余谷城、それから猿喰山城に立て籠もりました。以下、「千代田勢」と呼びます。
 一方、その当時安芸国の守護大名だった武田氏や、大朝の吉川氏などは足利尊氏側で、千代田地域に攻め込んできました。以下、「武田勢」と呼びます。

観応の擾乱 配置図
※1 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 平30中複、第46号)
※2 この複製品をさらに複製する場合は、国土地理院の長の承認が必要。


 観応元年(1350)6月4日、武田勢は『井野村峠』に陣を張り、千代田勢は『道祖峠』に陣を張りました。そして6月8日、両軍は『道祖峠』付近でぶつかり激しく戦います。この時の戦いは武田勢が勝利します。
 ところが、その『井野村峠』と『道祖峠』がどこにあったのかが分かっていません。おそらく寺原から今田にかけてのどこかだろうと見当はつくのですが、正確な場所が分かりません。
 そもそも、『道祖峠』と書いて、なんと読むのかさえ分かっていません。この戦いのことが詳しく書いてある『陰徳太平記』には、「道祖」の横に「サヤノ」とルビが打ってあります。『道祖峠』と書いて、「サヤノダオ」と呼んだのかもしれません。
 現在、この地域に「サコガタオ」という峠があります。もしかしたら、「サヤノダオ」が「サコガタオ」に変わったのかもしれません。

 一口に700年といいますが、700年というのはあまりに長い年月です。戦いで大勢の命が失われたはずの『井野村峠』や『道祖峠』がどこにあったのか?場所だけでなく、正確な呼び方さえ分からなくなりました。逆に言えば、分からなくなったぶん歴史ロマンといえるかもしれませんが… 

 さて、今年も、四回にわたって、北広島町内外の街道を歩いて来ました。どの街道にも、それぞれの歴史や文化、人々の生活の営みがありました。
 平成も最後の年になりましたが、私たちが今、どんな歴史の流れの中を生きていて、これからどのような方向に進もうとしているのか。それを知るためにも、地元に残る先人の足跡を学ぶことは大切なことだと思っています。

 


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