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きたひろエコ・ミュージアム 令和元年6月

印刷用ページを表示する更新日:2019年7月25日更新

街道をゆく 時雨三坂峠 ~伊能忠敬支隊の通った道~

広島側の大朝地域から島根側へ越す峠は三本あって、いずれも三坂峠といいます。

三坂峠 地図 
※1 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。(承認番号 令元中複、第8号)
※2 この複製品をさらに複製する場合は、国土地理院の長の承認が必要。

市木に越すのが、「市木三坂峠」。それから現在の国道261号線にあたるのが、「中三坂峠」。今回は、新庄から岩戸を越して島根県の亀谷に向かう峠を越しますが、これは「時雨三坂峠」、もしくは「亀谷峠」といいます。また、石見銀山への近道なので、この道を「大森街道」とか「銀山道」といいます。

伊能忠敬肖像画
伊能忠敬像  所蔵:千葉県香取市 伊能忠敬記念館

江戸時代、伊能忠敬(いのうただたか 1745~1818)という人がいました。この人は、全国をくまなく測量して歩き、大変に正確な日本地図を完成させました。その地図を伊能図と呼びますが、それは今の日本地図と比べてもほとんど遜色ないほどの完成度です。その伊能忠敬の測量隊が、この道を通っています。

といっても、伊能忠敬本人ではありません。伊能忠敬の測量隊には伊能忠敬を隊長とする本隊と、永井甚左衛門を隊長とする支隊との二つがありました。その支隊の方が、文化10年の11月14日~15日にかけてこの道を通り、測量しています。文化10年とは、1814年のことですから、今から200年前のことです。

その時の日記が残っています。

(前略)同十四日 終日雪降。志路原村出立。同村大口橋志印より初、枝下ケ原、船峠、新庄村、右に日野山吉川元春の古城、字横路田、新庄本郷追分、広島街道出迄一里三十一町二十四間。此は去る末(ママ)年二月石州浜田より可部迄測、広島街道の内重測、本郷内字伊関、字宮ノ庄大川端に至る。右広島、左大森追分抗(ママ)に繋、重測分十三町二十七間五尺。即去る末(ママ)二月此抗(ママ)に繋置、此より石州街道大森道測量、大川土橋十二間、平田橋という。岩戸村字平田、岩戸本郷止宿前岩印に打止六町二十七間、街道合二里十五町十八間五尺。九ツ時半頃岩戸本郷着。止宿一向宗明円寺、外百姓清兵衛。(後略)
『伊能忠敬測量日記第五巻』 (大空社) 472頁より引用

これによりますと、伊能忠敬の支隊は、志路原から船峠を越して新庄に出ます。それから可愛川にかかる平田橋を渡って岩戸村に入り、九ツ時半頃に岩戸明円寺に着き、その日はそこで一泊します。

九ツ時半頃というのは、午後1時頃です。宿入りするのには少し早すぎる気もしますが、測量隊の仕事は、測るだけではありません。それを記録し、計算し、図に表し、ときには星を観測して、地図とずれていないか位置を確認します。パソコンも電卓もない時代、算盤だけでそれをやるのですから、大変に根気の要る作業だったことでしょう。

伊能忠敬イラスト
入澤良枝 画

これはその時に描かれた、この付近の地図です。道が主なので、川や土地利用などは描かれていません。しかし、道の距離と方角は正確です。

新庄村・宮迫村・岩戸村付近の古地図
出典:国土地理院ウェブサイト

冒頭にも書いたように、この道は、島根県の石見銀山へ続く道です。

石見銀山は、戦国時代から江戸時代にかけて大量の銀を算出する世界最大級の銀山でした。最盛期には、その当時の世界の銀の産出量の3分の1を産出したとも言われました。

そのため、江戸幕府にとっても大変に重要な場所で、石見銀山は天領、すなわち直轄領でした。この道はその銀山に続く道ということもあって警戒が厳重でした。

  関所跡付近の写真

ちょうど、写真のここらあたりに関所があって通行人を厳しく取り調べていました。

ところで、この橋の辺りは、昔の村でいうと新庄村です。

新庄村絵図
出典:『藝藩通志』 (国書刊行会) 835頁より引用

この地図は、伊能図ではなく、江戸時代に書かれた『芸藩通志』に出てくる新庄村の地図です。ごらんのように、関所(赤丸)のあるあたりは新庄村の飛地になります。この橋を渡ると島根県の県境までは新庄村を行くことになります。

亀谷峠頂上付近 亀谷峠頂上の石碑

ふもとから約30分。時雨三坂峠、別名亀谷峠の頂上に来ました。ここに国境の碑が建っています。「従是南安藝國(これよりみなみあきのくに)」と彫られています。この道をこのまま進みますと、島根県邑智郡亀谷に出て、石見銀山のある大森方面に向かいます。

今回の旅は、今から約200年前の伊能忠敬の支隊の通った道をたどる旅でした。

今は中三坂が国道になり、時雨三坂を通る人は少なくなりましたが、かつてはこちらの時雨三坂が本街道で、中三坂の方が脇街道でした。

さて最後に、再び、伊能忠敬支隊の日記を読んでみます。

(前略)字塚ケ迫、枝鉄穴原谷、和田橋、字紺屋、清水橋四間小流、字清水、谷橋小流五間、字柳谷、宮迫村、本村は山中二十町斗引込て不見、枝奥岩戸、新庄村飛地枝七間光り、新庄番所、時雨峠国界迄一里十四町五十七間、(後略)
『伊能忠敬測量日記第五巻』 (大空社) 472~473頁より引用

前夜泊まった岩戸村の明円寺から、この国境まで一里十四町五十七間とあります。これを今の距離に換算しますと、5558mになります。これは、おそらく今測ってもそれほど違わない、正確な数値だと思います。


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