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きたひろエコ・ミュージアム 令和元年12月

印刷用ページを表示する更新日:2020年1月21日更新

街道をゆく 鉄の村を行く ~芸北地域 大暮~

宮瀬にて

芸北地域の大暮は、江戸時代より大正時代まで、長い間、鉄を生産してきた、いわば「鉄の村」です。ここには、鉄づくりの史跡が、それぞれの時代ごとに残っています。今回は、その鉄の村「大暮」を歩きました。

大正時代の大暮 出典:「山縣郡写真帖」(発行:大正15年 撮影:熊南峰)

現在の大暮

この二枚の写真は、大暮の入り口にあたる小原の宮瀬から大暮方面を撮った写真です。宮瀬は、芸北を東西に走る奥山街道と、ここから南北に石州市木へ抜ける大暮街道が交差する交通の要所でした。
上は、今から約100年前の写真です。下は、ほぼ同じ位置から、同じ方向を写した現在のものです。

大鍛冶屋跡地にて

大鍛冶屋 イラスト
入沢良枝 絵

江戸時代の鉄づくりを「たたら製鉄」といいます。「たたら製鉄」は、地元の農民が作るのではなく、高度な技術を持った鉄づくり専門の職人が作りました。その人たちは「山内(さんない)」と呼ばれ、家族を含めると200人~300人規模で自分たちのコミュニティを形成していました。
たたら製鉄というのは、大きく分けて、鉄の塊をつくる「たたら場」とそれを加工する「大鍛冶屋」の二つがあります。
実は、山県郡内、江戸時代には、「たたら場」はそれほど多くはなく二~三軒くらいです。多かったのは「大鍛冶屋」の方で二〇~三〇軒くらいありました。
たたら場で作られた鉄の塊を鉧(けら)とか銑(ずく)と言います。鉧と銑では作り方が違います。しかし、どちらもそのままでは商品になりません。
それを大鍛冶屋に送り、そこで、刃物にする鋼や、曲げやすい針金や釘、さらには溶かして鋳物にする鉄等に種類分けして初めて商品となります。
大鍛冶屋の跡地には、その時に不要物して捨てられた鉄くずがたくさん落ちています。これを鉄滓(てっさい)といいます。その中には、まだたくさんの鉄分が残っていました。ちなみに、たたら場跡地にもたくさんの鉄滓が落ちていますが、そっちにはあまり鉄分は残っていません。
しかし、江戸時代の技術ではこれが限界で、これ以上鉄を取り出すことはできませんでした。そのために、各地の大鍛冶屋のあった場所には、鉄滓がそれこそ山のように捨てられたままになっていました。
明治になって、この県内各地に大量に捨てられていた鉄滓から、再び鉄が取り出せないかと考えた人たちがいます。今でいうリサイクルでしょうか。

山縣製鉄所跡地

山県製鉄所跡地にて

ここに高いレンガ造りの煙突があります。ここらあたり一帯は、地元の人たちが「溶鉱炉」と呼んでいる山縣製鉄所の跡地です。
一枚の古い写真があります。これは、その当時の山縣製鉄所を写した、今日一枚だけ残っている大変に貴重な写真です。ここには明治34年から大正12年にかけて、「山縣製鉄」とよばれる製鉄所があって、「大暮木炭銑」というブランド名の、その当時、大変に上質の鉄を作っていました。その当時の日本は、日清戦争や日露戦争などの戦争をしていた時代ですから、鉄がたくさん必要でした。この大暮木炭銑は、江戸時代、大鍛冶屋付近に大量に捨てられていた鉄滓から鉄を作った工場です。

山県製鉄所の写真
出典:「山縣郡写真帖」(発行:大正7年 撮影:大島邦清)

この工場の最盛期には、常時300人くらいの人が働いていて、年間30万トンの鉄を作ったといわれています。
この写真には二本の煙突が立っていますが、一本は崩れ、左側の煙突だけが現在補修され、近代製鉄遺産として残されています。

野島国次郎

これを経営していたのは、東城出身の実業家、野島国次郎という人です。野島は、大学を卒業したばかりの優秀な技術者を雇ってきて、鉄滓から鉄を取り出す研究をさせます。そして県内各地に木炭銑工場を作って成功したり、逆に失敗したりを繰り返し、波乱万丈の人生をおくりました。
宮瀬からこの製鉄所跡地までの道路は、野島が原料の鉄滓を運び込んだり、出来た木炭銑を運び出したりするために広げた道路で、地元の人たちは「野島道路」と呼びました。

古仙斎

古仙斎自画像
所蔵:大朝 円立寺

古仙斎(寛政6年1794~明治3年1870)という画家がいました。
古仙斎は、大暮の山内に生まれました。親は「吹差」という鉄炉に風を送る職人だったようです。古仙斎は、山内を出て寺に入りお坊さんになろうとしましたが、小さい時から絵を描くのが好きで、京都に行って絵の勉強をして帰り、古仙斎と呼ばれる人気絵師となりました。
この絵は、古仙斎の自画像と言われているものです。周囲をネズミにかじられていますが、幸い中心部だけは残りました。目と笑顔に特徴のある、人なつっこい表情をした人だったようです。

古仙斎の描いた傑作と言われている絵馬を見に、大暮の入り口にある宮瀬神社に行きました。この絵馬は、「仙人囲碁図」と呼ばれるもので、古仙斎の最高傑作と言われているものです。

仙人囲碁図
所蔵:宮瀬神社


絵のテーマは、仙人同士が囲碁を打っているのを人間の木樵(きこり)が横から観戦している図です。仙人の過ごす異界は悠久の時間で、人間の過ごす時間よりもはるかに長いので、木樵の持っている斧の柄が朽ちてしまった。囲碁の観戦が終わって木樵が我が家に帰ってみると、何百年も経っていて誰も知っている人がいなかったという中国の故事に基づいた絵です。
額などはずいぶん傷んでいますが、構図や、人の表情が大変に面白く、また鮮やかな色遣いなどがそのまま残っています。
周囲に字が書いてあります。右上にある「山本氏」というのは、当時、奥山24ケ村の割庄屋をしていた、移原在住の屋号「桧」こと山本五郎左衛門のことです。おそらく山本五郎左衛門が絵馬製作の資金を出して、宮瀬神社に奉納したのでしょう。

ヘッドハンター事件

戦いの図
入沢良枝 絵


たたら場にしても、大鍛冶屋にしても、そこでは専門の職人が働いていました。どちらも高度な技術を要する仕事ゆえに、技術が盗まれることを極度に恐れました。
逆に、今でいうヘッドハンターというのでしょうか、優秀な人材を引き抜くという事件も起きています。『美和村史』という本の中に、宝暦4年(1754)に、大暮の大鍛冶屋で実際に起きた事件が記されています。
簡単に紹介します。
島根県市木で藩営鍛冶屋の支配人をしていた天王寺屋田中作次郎という人がいました。この人が、ここ大暮で働いている、腕利き職人の勘右衛門、権次郎という親子に目を付け、こっそりと引き抜きを謀ります。
その親子が、ある日突然、大暮の仕事を辞めさせてほしいと申し出たことから発覚しました。不思議に思って問いただしてみると、市木側から引き抜かれ、すでに支度金まで受け取っていたことが判明します。
これは大暮側にはまったくの寝耳の水の話でした。しかし、これを認めるわけにはいきません。どこの大鍛冶屋も優秀な技術者は喉から手が出るくらい欲しいのです。その上、他所に引き抜かれると、企業秘密にしていた技術までが流出します。
一方、市木の大鍛冶屋からは、「すでに当人たちと話はついている。金も渡しているのだから親子を引き渡せ」と迫ります。
あわや大暮と市木の大鍛冶屋同士の大喧嘩になりそうになり、あわてた広島藩と浜田藩が調停に入って収め、最終的には引き抜き工作は失敗に終わりました。
この話は、
(1) 製鉄は大変に高度な技術を要するもので、各大鍛冶屋は技術を秘密にしていたこと
(2) 山内で働く技術者に住居移転、職業選択の自由はなく、全て鉄山師に握られていたこと
(3) 現在、広島県の大暮と島根県の市木の間は天狗石山と阿佐山が遮り、交流はほとんどありませんが、その当時は人や鉄の交流が盛んだったこと
などを教えてくれます。


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