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きたひろエコ・ミュージアム 令和2年3月

印刷用ページを表示する更新日:2020年4月20日更新

街道をゆく ~千代田地域 畑~

畑公民館(元畑小学校跡地)にて

旧畑小学校の写真
今回は、千代田地域の畑地区を歩きます。
この畑地区を流れている川は、根の谷川です。根の谷川は可部方面へ流れていき、やがては太田川に合流します。千代田地域にある川は、この川以外は全て可愛川になって日本海に流れ込みますが、この川だけは太田川になって瀬戸内海に流れていきます。

南方村絵図
出典:『藝藩通志』(国書刊行会) 818頁より

 
畑地区は南方村の一部です。ちょっとこの地図を見て下さい。これは『芸藩通志』に出てくる江戸時代の南方村です。

ごらんのように、江戸時代には南方村の真ん中に「木次村」と呼ばれる別の村があって、それによって南方村は南北に二分されていました。北側がいわゆる南方地区で、南側が畑地区になります。そして南方地区の川は可愛川に流れ、畑地区の川だけは根の谷川になります。
川の流れが違ってくると、人々の交流圏や経済圏が違ってきます。この畑地区は、八重や壬生よりも、安芸高田市の八千代や、広島市の可部とのつながりの強い地域でした。
また畑地区は急傾斜地が多いところで、耕地もそれほど広いところではありません。そのため、昔から畑地区の人たちは、工夫をして農業以外のいろいろな産業に携わってきました。

タバギの写真
写真提供:認定NPO法人 西中国山地自然史研究会

畑地区は周囲がすぐに山なのと、可部や広島方面に近いという利点を活かし、山に入ってエダギとかタバギ、あるいはカベギといわれる木を束ねたものを作り、それを乾かして軽くし、可部方面に売りに行きました。
最初の頃は人が背負って運びましたが、時代が下がるにつれて、それが馬になり、馬車になり、やがてはトラックにと運ぶ方法こそ変わりましたが、可部、広島、遠くは呉方面まで売りに行きました。昭和40年代になって、いわゆるエネルギー革命が起こり、各家庭の燃料が薪や炭から、電気やガスに変わるまで長い間、この地域の貴重な現金収入でした。

白石


畑の下の方にやってきました。
ここの川の中に大きな白い石が二つ転がっています。畑地区には昔、『白石』と呼ばれる石が出て、それを掘り出す鉱山がありました。
白石の写真
これは、正式には珪石と呼ばれる石で、SiO2(二酸化ケイ素)を含む石です。ガラスや陶磁器の原料になります。
ここ畑地域の珪石は大変に質が良いということで、戦前、戦中は主に軍事用の特殊なガラスに使われていたようです。戦後もしばらく、昭和34年ごろまで、採掘していました。
当時の鉱山の様子を示す写真が残っています。白石は、ダイナマイトで粉々にして、それを人の背中や、策道と呼ばれるケーブルで一か所に集められ、そこからトラックに乗せて広島方面に運んだようです。
こうした近代の鉱山跡というのは、北広島町内では大変に珍しいものです。

畑硅石工場の写真
出典:『写真集 ちよだ』(町制施行30周年記念事業委員会) 88頁より

 

滝の前

根の谷川沿って古い街道を歩きます。
滝が見えてきました。

潜龍滝

実はこの根の谷川には、大小たくさんの滝があって渓谷になっています。ここの渓谷を『潜龍峡(せんりゅうきょう)』といいます。
なぜここに滝が多いかといいますと、冒頭、千代田地域内でこの根の谷川だけは太田川に流れるという話をしましたが、そのことと関係します。
大昔、人間が出てくるよりもずっとずっと前の、およそ20万年位前のことですが、この畑を流れる川もそのころは可愛川になって日本海に流れていたようです。しかし、その内、根の谷川の上流がどんどんどんどん侵食してきて、可愛川にぶつかり、そうした浸食によって川の流れが変わり、今では太田川に流れるようになりました。
こういう現象を「河川争奪」といいます。「争奪」といっても、別に人間が奪い合いをしたのではなく、大昔の自然の力によって川の流れが変わることを言います。ここの河川争奪は、地学的に見ても全国で大変に有名な場所です。

河川の変遷 20万年前  河川の変遷 現在
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。


この地図からはわかりにくいのですが、江の川と太田川では、川の高さがまったく違います。
可愛川の方が、根の谷川よりも100m高いところを流れます。そのため元可愛川だった川が、根谷川に流れるようになると、必然的に100m下るわけでして、この渓谷にはこうして大小たくさんの滝ができたということです。

センペルセコイア前にて

ここは、もう安芸高田市の八千代町との境にあたるあたりです。ここに大変大きな木があります。目通りの周囲が約5mあります。ということは直径が約1m60cmです。正確に調べたわけではありませんが、おそらく北広島町の中でも、一二を争う大木です。
この木の名前は、センペルセコイヤという、北アメリカ原産の杉の仲間です。
この木は大変に大木になるものでして、北アメリカでは高さが100mにもなるものもあるそうです。ところで、どうして、北アメリカの木がこんなところに生えているかと言いますと、明治期に、耕地の少ないここ畑地区の人達の中には、アメリカに渡り、向こうで働く人たちがいました。アメリカ本土やハワイに働きに行って、向こうで稼いでお金を送金していました。その当時アメリカに行くには大変な旅費がかかりましたが、借金して行っても、向こうで一・二年働けば十分に返せるほどに、アメリカの収入は魅力的でした。

センペルセコイヤの画像

もっとも日本人は働きすぎるので、白人労働者に嫌われました。また日本とアメリカの仲がだんだん悪くなると、住みにくくなって日本に帰ってきた人たちもたくさんいます。
この木は、その頃にアメリカから日本へ帰ってきた人が、何本かのセンペルセコイヤの苗木を持ち帰って、ここに植林したようです。それは昭和9年のことといいます。ですから、今から85年ほど前のことです。
逆に言うと、この木はこんなに大きくても、樹齢何百年とかいうものではなく、まだ85年しかたっていないということです。ということはこの後、この木はまだまだ大きくなる可能性があるということです。この木がいったいどれくらいまで大きくなるのか、ちょっと楽しみです。


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