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きたひろエコ・ミュージアム 令和2年5月

印刷用ページを表示する更新日:2020年6月9日更新

街道をゆく ~石州街道有田付近の石碑を訪ねて~

ほろびゆく もの美しき 遠き世の 供養の文字乃 苔にやつるも
山口素堂


という歌があります。
滅びゆくものは美しい。滅びゆくものを供養するために建てられた石碑に刻まれた文字が苔のために読みづらくなっていることにも滅びゆくものの美を感じる、という意味でしょう。

今回は、千代田地域の有田を歩いて、石州街道沿いにある古い石碑を訪ねてみました。

吉左衛門の碑

吉左衛門の碑

最初の石碑は、江戸時代の中頃に一揆の首謀者として処刑された有田村の吉左衛門を祀る地蔵と石碑です。地蔵の前の焼香台には、生前、吉左衛門が使っていたといわれる印鑑が彫られています。
江戸時代の中頃、享保3年(1718)に、広島藩全体を巻き込んでの大きな一揆が起きます。これを『享保の一揆』と云います。
山県郡で起きた一揆というと、武一騒動が大変に有名ですが、武一騒動というのは明治4年(1871)に起きた一揆です。享保の一揆はそれよりも150年以上前に起きたものです。
その当時の広島藩は、財政不足に陥り、藩の財政を増やそうとして行政改革に取り組んだのですが、それは百姓にはとても受け入れがたいものでした。
百姓は、手に、手に竹槍を持って一揆を起こします。広島藩は、一揆を抑えきれず、行政改革は失敗に終わりました。享保の一揆は、百姓側の勝利で終わりました。
しかし、一揆というのは、成功・不成功に関係なく、違法行為とされ、関係者は処罰されました。特に一揆の首謀者は打ち首・獄門にかけられる決まりでした。
山県郡内では、二人の百姓が首謀者として打ち首・獄門にかけられました。そのうちの一人が、この有田村吉左衛門です。吉左衛門の首は、この場所で首を晒されました。
この場所は、南北に走る石州街道と、ここから東方面の壬生・高田郡方面に向かう道との分かれ道で、たいへんに人通りの多い街道の要所です。獄門はこうした所をわざわざ選んで晒し、多くの人の見せしめにしました。

安左衛門の碑
山県郡では、この吉左衛門と、もう一人、芸北地域中祖村の安左衛門が打ち首獄門にかけられました。安左衛門の碑は、雄鹿原の中祖に建てられています。ちょっと皮肉な話ですが、この安左衛門の碑の文字は、一揆当時、敵であった広島藩主、浅野家の末裔にあたる浅野長武(あさのながたけ)が揮毫しています。

東部高等の碑

東部高等之碑

有田八幡神社の下に、大変立派な石碑が建てられています。『東部高等之跡』と書かれています。これが何の石碑かと云いますと…、
日本の学校制度は明治5年(1872)から始まるのですが、制度だけはできても、内容は不十分なものでした。明治14年の壬生小学校の就業状況(『千代田町史 通史編下』)をみますと、就学率は35%しかありません。しかも就学していた子供のほとんどは男子です。
明治14年壬生小学校就学状況


また、逆にもっと高等教育を受けたいと願う人たちにとっては物足りないものでした。
そうした反省点から、日本の学校制度が本格的に整備されるのは、明治19年に発令された『学校令』からです。
その『学校令』によって、山県郡の最初の高等教育をする場として、明治20年(1887)にこの地に建てられたのがこの学校です。山県郡に一校だけあった高等教育をする学校です。名前を『山縣高等小学校』といいました。今でいえば、中学校ですが、小学校も満足に行けなかった時代、この学校は、その当時は多くの人たちにとって憧れの学校でした。
この山縣高等小学校の写真は現存しません。ただ、『山縣郡教育誌』という本の中に、この学校の見取図が出てきます。

山縣高等小学校増築図
出典:『山縣郡教育誌』(廣島縣山縣郡教育會) 153頁より

これを見ますと、洋風のアーチ型の玄関や、寄宿舎まで設置されている、大変に立派な建物だったようです。

 

武田元繁戦死の地

有田城の麓に来ました。ここに一つの石碑が建てられています。『武田元繁戦死之地』と彫られています。

武田元繁戦死之地の碑
今から500年ほど前の、永正14年(1517)年に、この上の有田城をめぐって大きな戦いが行われます。「有田合戦」とか「中井出・又内川の戦い」と呼ばれるものです。安芸の国の守護大名で祇園銀山城の武田元繁は山県郡に勢力を伸ばそうとして、ここ有田城を攻撃してきました。それを守ろうと迎え撃ったのが、毛利・吉川連合軍です。この戦いは、毛利元就の初陣としても知られています。
戦力的には武田軍の方が圧倒的に優勢でした。しかし、いざ戦いが始まってみますと、一進一退でなかなか決着がつきません。業を煮やした武田元繁は自ら馬に乗って、先頭に立って攻撃を仕掛けてきました。毛利軍は、そこを見逃しませんでした。
ここらあたりの戦いの様子は、『陰徳太平記』という本に詳しく述べられています。

(武田元繁ハ)駿馬ニ笞ヲ打テ、河水ヲ閃リト飛越サレケル處ヲ元就「アレ射テ落セヤ者共」ト、七八騎ニテ馳寄ラレハ、所々ニ散リタル丹比(毛利方)勢共立帰テ射タル矢ニ元繁ノ胸板後ヘ究ト射徹ケル程ニサシモ項羽(『史記』に出てくる勇将)ガ勇ヲナシシ元繁モ又内川ノ水際ニ馬ヨリ真逆ニ落ラレケルヲ、元就ノ側ニ扣ル井上左衛門尉走リ懸リテ首掻切テ、切先ニ貫キ、「比夾鬼神ノ様ニ恐レシ武田殿ヲバ、井上左衛門尉討取タリ」ト呼バリケレハ、已ニ引色ニ成タル丹比勢大キ勇ミ、箙ヲ扣キ聲ヲ揚テ勝鬨ヲ咄ト作…(以下略)
「陰徳太平記 巻三」より引用

つまり、大将の武田元繁は、馬に乗り先頭になって攻めかかってきたのですが、毛利側はそこを集中攻撃します。そのうち一本の矢が、元繁の胸に突き刺さります。そして、馬から真っ逆さまに川に落ちます。そこを毛利の家来の井上左衛門尉という人が、駆け寄ってきて、首を切り落とし「鬼神の様に恐れられし武田殿を、井上左衛門尉討取たり」と叫びます。
それを機に、武田軍は総崩れになります。
『陰徳太平記』は、江戸時代になって毛利・吉川の立場から書かれた書物なので、この通りだったかどうかは分かりません。場所も本当にここだったかどうか不明ですが、毛利元就の出した感状も残っていますから井上左衛門尉という人が武田元繁を討ち取ったのは間違いないようです。
この戦いは、戦力的に劣る毛利・吉川軍が大勝したこと、またこの戦いをきっかけに、毛利元就が中国地方の覇者になっていくことなどから、今川義元を破って天下取りに名乗り出た織田信長になぞらえ、「西の桶狭間」とも呼ばれます。

今回は、有田にある石碑や史跡を訪ねてみました。今回歩いたのは、20分くらいの範囲ですから、ぜひ一度訪ねてみてください。

 


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