(1) 小野周軒屋敷跡にて
岡岷山の『都志見往来日記・同諸勝図』を訪ねる第三回目の旅です。
岡岷山というのは、広島藩のお抱え絵師の名前です。岡岷山は、江戸時代の寛政9年(1797)に、都志見村の駒ケ滝を見るために、8月23日に広島城下を出発。7泊8日の旅をして『都志見往来日記・同諸勝図』を完成させました。
その7泊8日の旅はこの表のとおりです。
岡岷山が、北広島町を通ったのは、旧暦8月27日と28日です。
このシリーズの一回目では、8月27日に岡岷山が加計峠を越して長笹に出て、長笹の庄屋藤左衛門の家で昼休みをしたところまでを紹介しました。二回目は、戸谷の獅子巌と、翌8月28日に都志見の駒ケ滝に登ったところまでを紹介しました。今回は、その続きで、8月28日と29日、吉木村から安芸太田町の穴村までの旅です。
最初に紹介するのは、豊平地域の吉木、戸坂(とっさか)にあった、医師小野周軒の屋敷跡です。
岡岷山は、ここ戸坂で、小野周軒という医者を訪ねて昼休憩をしました。小野周軒の家は、今日は残っていませんが、地元の人に聞きますと、以下の写真の丸印あたりに「昔、小野という大きな家があったので、たぶんここだろう」と言われました。
今は竹藪になっていますが、竹藪の中に、石と石の隙間がほとんど無い美しい石垣(赤丸印)が見えます。今も少しも崩れていません。
この小野周軒という医者については、岡岷山の日記に
山を下り南に向ふ、吉木村に至り、小野周軒所に昼休す。座敷に屏風あり、清朝人の書を集て是をはる。依て周軒に向て、此書を賞し、又その家業の伝るゆえんを尋ねるに、高橋周悦の門人にて長崎に至りてハ吉雄孝作に便りて外治の方を受け、十四五年以前此吉木村に住すと云
引用:「都志見往来日記」(編集発行:広島市立中央図書館 所蔵:広島市立中央図書館(浅野文庫))26頁
「意訳:山を下りて南に行く。小野周軒の家で昼休みをする。座敷に屏風があって、中国、朝鮮の文人達の書を集めて貼ってある。これを誉めて、どうしてここで医者をしているのかと聞くと、高橋周悦先生について医学を学んでいたが、やがて長崎に行き吉雄孝作先生について外科を学び、14、5年前にここ吉木に帰って開業したという」
と書かれています。高橋周悦と吉雄孝作という名前が出てきますが、二人とも、その当時の有名な医者です。特に吉雄孝作は、蘭方医として日本を代表する医者でした。杉田玄白・前野良沢に頼まれて、彼らの訳した日本最初の西洋解剖学書『解体新書』の前文を書いた人でもあります。
小野周軒は長崎に行って、その吉雄孝作に師事し、最新の外科治療を学び、14、5年前にここ吉木に帰ってきて開業したようですが、その後どうなったのかは伝わっていません。
さて、岡岷山の日記の続きは、
夫より南に向て山に登る。峰を越、坂を下れハ道嶮にして曲折す。七曲と云。
引用:「都志見往来日記」(編集発行:広島市立中央図書館 所蔵:広島市立中央図書館(浅野文庫))27頁
「意訳:それから南の方へ向かって山に登る。峠を越す。坂を下り始めると道は険しく、曲がりくねっている。七曲という」
岡岷山は、ここ小野周軒邸から山に登り、七曲と呼ばれる屈曲した峠を越します。
(2) 七曲 圃場整備石碑前にて
戸坂から約20分で、七曲の峠を越しました。出てきた場所は、今でも、地名として「七曲」と呼ばれています。
岡岷山は、ここで七曲の絵を描いています。岡岷山の描いた北広島町内の絵は、『戸谷村獅子舞岩』『都志見村駒ケ滝』『吉木村七曲』と三枚ありますが、これはその内の最後の一枚です。
この右ページに描かれている曲がった山道が、七曲と呼ばれる、今越してきた峠です。当時はこの道しかありませんでしたが、今は、吉木川に沿って新しい道路がつけられているので、この山道を通る人はいなくなりました。
出典:「都志見往来日記・同諸勝図」(編集発行:広島市立中央図書館 所蔵:広島市立中央図書館(浅野文庫))
前回にもお話しましたが、岡岷山の描く絵というのは大きな特徴があって、実際に目で見た通りに描いた絵ではなく、写実的ではあるけれども「もし高いところから見たらこういうふうに見えるであろう」と想像した写実画です。
この絵も、これと同じ風景が見られる場所というのは地上にはありませんが、もしドローン等で高い位置から見たら、これと似たような風景が見られることと思います。
(3) 障子巌の入り口
安芸太田町の安野に入ってきました。昔で言えば、穴村と呼ばれているところです。滝の傍に赤い手すりのついた登り口がありますが、ここから、約20分登ったところに障子巌といわれる大変に巨大な岩があります。
ロッククライミングに適しているような、高さ約30mものの、絶壁です。
ところで岡岷山は、この障子巌の絵を描いています。吉木村から穴村に入って最初の絵です。岡岷山は、この絵を、川向こうの反対側の山から眺めて描きました。
出典:「都志見往来日記・同諸勝図」(編集発行:広島市立中央図書館 所蔵:広島市立中央図書館(浅野文庫))
(4) 正覚寺にて
穴村にある正覚寺というお寺の前に来ました。この寺の前に、かつて、たたら製鉄業で栄えた小田権右衛門という豪農がいて大きな屋敷に住んでいました。この寺も元は小田家の菩提寺でした。小田家というのは、先祖は、『平家物語』の鵺退治で有名な源頼政の末裔といわれています。
今は、屋敷跡は水田と空き地になっていますが、昔おそらく、ここらあたりに築山があったであろうと思われる一角が残っていて、当時の大きな屋敷の面影を残しています。
写真提供: 正覚寺(現 安芸太田町安野)
この写真は平成4年ごろに撮影されたものです。大きな松の木と、城のような勇壮な石垣が残っていましたが、今はこの松も枯れ死してしまい、石垣だけが残っています。
寛政9年(1797)に岡岷山がここを訪ねてきた時も、すでにこの屋敷跡は荒廃していたようです。岡岷山のその日の日記を読んでみます。
又十町はかりにして穴村の郷に至る。往年此所に権右衛門といへる豪農の農民あり。源三位(さんみ)頼政の後胤として遍く人の知る處なり、案内の者に是を尋るに、其子孫と云て今ハ微にして尋常の農民なり。昔の形を存るものハ築山はかり也、と云により立寄て見るに、踏石のミ残りて座敷ハなし、池に二ツの嶋あり、石橋を掛たり、樹木あれて趣をなさず。
引用:「都志見往来日記」(編集発行:広島市立中央図書館 所蔵:広島市立中央図書館(浅野文庫))27頁
「意訳:また1kmほど下って穴村の郷(さと)に出た。ここに、かつて権右衛門(ごんえもん)という豪農が住んでいた。源頼政の子孫として多くの人に知られている。案内をしてくれた人に、今はその家はどうなったのかと聞くと、今は昔ほどの勢力はなく普通の農民だという。昔の面影を残すものは、屋敷跡の築山だけとなっている。寄ってみたら、庭の踏石だけ残っていた。池に二つの島があって、そこに石橋かかかっていた。樹木は荒れていて趣はなかった。」
ここ穴村の小田家は衰退しましたが、この本家から分家した小田家がいくつかあります。一軒は芸北溝口で、もう一軒は大朝新庄で、どちらも「たたら製鉄」で財を成します。また両方の小田家はいずれも「花屋」という屋号を名乗りました。
溝口の「花屋」は、嚴島神社の能舞台に設置してある鉄の燈篭を寄進しています。その燈篭には、今も「芸州山縣郡溝口荘居住小田正作政久」と名前が彫られています。
これは大変に偶然ですが、溝口の小田氏が嚴島神社に鉄燈篭を寄贈した年と、岡岷山がここで荒れた小田家の庭園を見たのは、奇しくも同じ寛政9年のことです。本家の小田家は衰退しましたが、溝口にあった分家の小田家は、逆にたたら製鉄で大変な財力を持っていたということです。
さて、3回にわたって、岡岷山の『都志見往来日記・同諸勝図』の旅を巡りました。
皆さんもぜひ現地を訪れて、今から220年も前の画家が描いた当時の風景と今の風景を見比べてみてください。
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