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きたひろエコ・ミュージアム 令和2年11月

印刷用ページを表示する更新日:2020年12月16日更新

街道をゆく 近世から近代 鉄の道を歩く 前編

大朝から筏津を通って芸北の高野、移原への道沿いには、かつて「たたら製鉄」が繁栄した時代の遺跡がたくさんあります。この道は、いわば「鉄の道」、アイアンロードです。
今回と次回の二回に分けて紹介します。

大朝と筏津の境に、「鉄穴流し」という方法で砂鉄を採集していた遺跡が残っています。
「鉄穴流し」というのは、砂鉄を採る方法です。

鉄穴流しのようす 鉄穴流しのようす
写真提供: 株式会社 日立金属安来製作所

この写真は、島根県でわりと最近まで鉄穴流しをしていた時の写真です。(株式会社 日立金属安来製作所 提供)
川の上流で山の土を崩して、その土を溝に流します。そうしますと、比重の重い砂鉄は、池の底に溜まります。一方、比重の軽い土や泥は、下流に流れていきます。こうやって鉄と土の比重の違いを利用して砂鉄を採っていました。これを鉄穴流しといいます。

しかし、こうした方法で採れる砂鉄というのはごくわずかです。大部分は必要ない砂や泥です。その大量の砂や泥は再び川に流します。
ですから鉄穴流しすると、川が浅くなり、泥水が田んぼに入ります。農業する人にとってははなはだ迷惑な話で、いわば公害みたいなものでした。そのため、鉄穴流しというのは、農作業をしない冬場にしかしてはいけないきまりになっていました。
また広島藩は寛永5年(1628)に、砂や泥で城の堀が埋まるという理由で、太田川水域での鉄穴流しを全て禁止しました。しかし、芸北大谷と大朝地区は太田川水系ではなく、江の川水系なので、ここらあたりでは盛んに鉄穴流しが行われていました。

旧大朝町地図に見る鉄穴流し跡
出典:旧大朝町管内図 (管内図に緑丸:鉄穴流し跡、赤印:たたら跡を記載し複製)

 

この地図は、昔、鉄穴流しをしていた場所を示したものですが、大朝地域だけで、20ヶ所以上の鉄穴流しの跡(緑丸)を見ることができます。

芸北、大谷のたたら製鉄跡地にきました。
日本のたたら製鉄というのは大変に長い歴史があり、例えば豊平地域にあるたたら製鉄遺跡は、ほとんどが中世のものですから、今から1000年以上も前のものです。
しかし、ここ大谷では、江戸時代の終わりから明治30年代までやっていましたから120~130年前までやっていたということです。

鉄滓の地層

ここに地層が露出している所があり、上部に『カナくそ』と呼ばれる鉄滓の地層が見えます。(赤丸内)つまりここに大量の鉄滓を、相当長い期間、捨て続けてきたものが、こうして鉄滓の地層となって露出しているのです。

金屋子神社跡

むこうに、高い木が何本か立っているのが見えます。金屋子神社のあった跡です。製鉄の神様を金屋子神社といって、たたら製鉄や大鍛冶屋のあった所には必ず、近くに金屋子神社を祀って、たたら製鉄の成功と、無事故を祈りました。大きな木は、杉、松、それにカツラの木です。カツラの木はたたら製鉄の金屋子神の御神木とされて、金屋子神社には必ず植えられていました。
今は山の中ですが、かつてここらあたりにはたくさんの建物が並び、たくさんの人たちが働いていたものと思われます。

たたら場イラスト
イラスト:入澤良枝

たたら製鉄や大鍛冶屋で働いていた人たちは、山内(さんない)とよばれる鉄づくりの専門集団で、地元の農民ではありません。大体100人~300人くらいが集団生活していました。
しかし、地元の農民も、砂鉄採集、炭焼き、荷物の運搬等の仕事がありました。このように、たたら製鉄というのは、大変にすそ野の広い産業です。一般には「一山1000人」といいますから、一つのたたら場があれば、その関連産業も含めると1000人くらいの人が、何らかの形でたたら製鉄に関わっていました。この中国山地一帯は、日本の一大製鉄地帯でした。
しかし、そんなに盛んだった、たたら製鉄がその後どうなったかといいますと…。
幕末から明治にかけて、外国から洋鉄が入るようになります。そうなると、日本のたたら製鉄は非常に効率が悪く、生産性も低いのでとても太刀打ちできません。たたら製鉄はだんだんと衰退していきました。それなのに、広島県内には、何万人ものたたら製鉄とその関連産業で働いている人がいます。その人たちが路頭に迷うことになります。
そのために明治新政府は、広島のたたら製鉄を官営化(国営化)しました。いわゆる官営工場です。官営工場というと、外国の近代的な機械設備を導入した『富岡の製糸工場』が大変に有名で世界遺産になりました。それとは全く意味合いが逆ですがここも官営工場です。そうすることで多くの人たちが路頭に迷わないようにしましたが、それも長続きはしません。

明治34年に北九州の八幡に、日本最初の西洋式製鉄所、八幡製鉄所が創業しました。こうして明治30年代に日本のたたら製鉄は完全に火を消します。

ここ大谷のたたら製鉄は、日本で最後までたたら製鉄が行われていた場所の一つです。
今回の旅はここまでで、この続きは次回の「街道をゆく」で説明します。


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