今回の「きたひろエコミュージアム」は前回の続きで、大朝から芸北へのアイアンロードの二回目です。前回は、大朝九門明から芸北大谷まで、「たたら製鉄」の遺跡を訪ねました。今回はその続きです。
出発地は江戸時代の高野村です。高野村は分水嶺のある村です。前回は村の東側の江の川水系を歩きましたが、今回は西側の太田川水系を歩きます。
山の中に道しるべがあります。道の上に石が並べて敷いてあります。これは石畳みです。
石畳みや道しるべがあるということは、ここは昔、かなり重要な街道で人通りも多かったということです。
道しるべに彫られている文字を読んでみます。「右 山道 左 大ぐれ」と書かれています。
つまり左の道は大暮に行く街道ということです。
この地図を見てください。
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
現在地から大暮へ行くのは、移原、米沢、小原を通り、ぐるっと大きく迂回して行かなければなりません(黄線)。
昔はここから山越しに大暮に直接行く近道(赤線)がありました。大暮は大正時代まで製鉄の盛んな村でしたので、大暮と高野を結ぶこの山道を利用する人たちは多かったようです。この道しるべは、そのために建てられたものです。
高野村の旧道に出ました。
ここに、無縁墓が集められています。説明の石碑もあります。
芸州高野村ハ江戸中期ヨり製鉄事業行ナワレ庄屋庄三郎ニヨツテ字田居ニ於テ鍛冶屋ヲナセリ
其ノ労務者ノ中ニ於テ死亡セル者ヲ現地ニ葬リシヲ改メテ一所ニ集メテ合同墓ヲ造ルコトヲ
山根丈次郎ガ発願シ素志ヲ遂ゲザリシ故嗣子山根久一此ノ度 (以下略)
芸北の移原にやってきました。ここに大きな石垣と屋敷跡があります。
ここは、安芸国の刀工、つまり刀鍛冶ですが、石橋正光という人の刀鍛冶場があったところです。
石橋家肖像画(個人蔵/ご協力:石橋伸介様)
日本刀は、たたら製鉄でできる玉鋼で作ります。玉鋼は、たたら製鉄でできる鉄の塊の中から採れる最高品質の鉄です。
この写真は、最近になって見つかった石橋正光の作った刀です。
脇差 銘芸州山縣移原住正光六十五歳(広島城蔵)
「中子」の部分に
藝州山縣郡移原村住正光六十五歳
以地産鋼鐵冶之鍛之
と彫られています。
「地産」というのは、地元産という意味です。おそらく、高野村大谷で採れた砂鉄で作ったという意味でしょう。
日本刀を作るのに広島産の砂鉄はあまり向いていなかったようです。日本刀は、島根県側の砂鉄で作られることが多かったようです。したがって、広島産の砂鉄で作られたこの刀はむしろ珍しい例と言えるでしょう。
石橋家は、先祖代々刀鍛冶の家系です。その中でも、石橋正光が一番有名だったようです。
石橋正光が活躍していたのは幕末ですが、正光は大変に人気の刀鍛冶だったようで、隣の浜田藩から300本の刀の注文を受けて、それをおよそ2年で納品しています。2年で300本ということは、1本作るのに、2日か3日で作ったことになります。これは驚くべきスピードです。もちろん一人や二人で出来る事ではありません。弟子を何人も使って、仕事を上手に分担し、流れ作業にすることで、マニュファクチャアとでもいうのでしょうか、日本刀の大量生産に成功したということでしょう。もしそうなら、それはそれで大変に興味深いことです。
ここ石橋正光屋敷跡は、桜の名所としても知られている処です。春には見事なエドヒガンの花が咲きます。桜のシーズンには、多くの人たちがやってきます皆さんもぜひ桜の季節にお出かけください。
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