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きたひろエコ・ミュージアム 令和3年6月

印刷用ページを表示する更新日:2021年8月4日更新

吉川家と北広島町の歴史(第1回) 吉川経高

今年(令和3年 2021年)は、毛利、吉川、熊谷、香川など中世東国の武士が、西国にやってくるきっかけとなった承久3年(1221年)の「承久の乱」から数えて、ちょうど800年目に当たります。そこで今年度の「街道をゆく」は、吉川氏と北広島町の歴史に焦点を当てて、4回シリーズでお伝えします。
その第1回目は、駿河の国(今の静岡県)からこちらに来た吉川家五代の当主、吉川経高を中心にお話しします。


吉川経高の肖像画というのは今日残っていないので、どんな人だったか分かりません。
ただ肖像画がないと、どうもイメージがわかないので、吉川経高の想像図を描いてもらいました。中世の武士の姿です。家紋は、吉川氏が貴族藤原家の流れを汲むということで、下り藤に吉川家の三つ引き紋にしてもらいました。

    吉川常高
     吉川経高像(想像図)  (画:入澤良枝)


ところでどうしてこんなお年寄りの姿に描いてもらったかと言いますと、吉川経高が静岡から大朝に来た時、彼はすでに80歳という高齢でした。
したがってこれは大朝に来た頃の、吉川経高を想像して描いてもらいました。

ここで、吉川家の歴史を振り返ってみます。経高よりもさらに100年ほど前の話です。
この地図を見てください。

地図
出典:国土地理院ウェブサイト
※ この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。

元々吉川氏というのは、駿河国吉河荘、現在の静岡市清水区吉川(赤四角)を本拠地とする武士でした。ちょうどこの地図のあたりを支配していました。
その吉川氏が一躍有名になった事件があります。「梶原景時の変」と呼ばれる事件です。
この地図に、狐ケ崎という駅名(赤丸)が見えます。この付近で、正治2年(西暦1200年)に起きた事件です。

 

狐ヶ崎
『狐ヶ崎絵巻:吉川氏物語 駿河國編』(藤井あつし 原案・編集、上田えい子 語り文・絵、岩国吉川会発行、2014)

鎌倉幕府と対立した梶原景時・影茂親子が鎌倉から京都へ急ぐ途中、この狐ヶ崎付近で当時の吉川家の二代当主、吉川小次郎友兼と出会い激しい戦いになります。
吉川小次郎友兼という人は、今日の話の主人公、吉川経高の三代前の人です。つまり曾祖父です。その友兼がここ狐ヶ崎で、青江為次の作った刀で梶原景茂を打ち取ります。
しかし、友兼自身も大怪我をしてその後まもなく亡くなります。

この時の手柄で、友兼の次の代の朝経のときに、吉川家は、福井荘をもらいます。福井荘といっても、福井県ではありません。この福井というのは、播磨の国、つまり兵庫県の福井(姫路市南部)の荘園を手に入れます。
吉川友兼が梶原影茂を討ち取った刀は、吉川家繁栄の基礎を作った刀として、戦った場所の「狐ヶ崎」という名前が付けられ、その後800年以上、今日に至るまで吉川家で代々家宝として大切にされ、現在に伝わっています。現在は岩国市の吉川史料館に保存されています。

狐ヶ崎刀
『狐ヶ崎絵巻:吉川氏物語 駿河國編』(前出)より


だいたい刀というものは、戦いに使うと、刃こぼれしたり、折れたり、曲がったりして使い物にならなくなります。戦国時代の刀は消耗品でした。他にも、打ち直されたり、短く切られたり、飾りの拵えもその時代、時代の流行に応じて変えられ元の形が伝わらないことが多いのですが、この刀は、刀身も拵えも800年前の形がそのまま残されていることから現在は国宝に指定されています。

さて、歴史は流れ、この狐ケ崎の事件から20年後のことです。さらなる大事件が起こります。日本中の武士が、京都の天皇つまり朝廷側と、鎌倉の将軍つまり幕府側との二手に分かれて戦います。結果は、鎌倉幕府側が勝つのですが、それが承久3年に起きた「承久の乱」です。

承久の乱
                         (画:入澤良枝)


先述したように、この乱の起きたのが1221年ですから、ちょうど今から800年前の事件です。
この時は、四代吉川経光の時代でしたが、この「承久の乱」で活躍して、安芸国の大朝荘をもらいます。そうして五代吉川経高のときに、静岡と兵庫の土地は兄弟に譲り、正和2年(1313年)に大朝にやってきました。
吉川経高が大朝に来て最初に作った城が、故郷静岡の国名を付けた駿河丸城です。
今回の街道をゆくは、その駿河丸城から出発します。

駿河丸城
吉川氏城館跡(駿河丸城跡)<国指定史跡> 遠景

写真は、大朝の間所にある駿河丸城遠景です。
駿河丸城というのはそんなに大きな城ではありませんが、この場所から、安芸国での吉川氏の歴史が始まります。吉川経高、その子供の経盛、さらにその子供の経秋と、三代約70年間にわたって、この駿河丸城を拠点に勢力を伸ばしていきます。


麓から歩いて5分ほどで本丸まで登ることができます。本丸に登っても、今は木が茂っていて周囲が見えにくいのですが、木が無かったら大朝の町並が一望できて、東西南北ににらみを利かせることのできる恰好の場所でした。この城を守るように、周辺にはたくさんの出城も配置されていました。
吉川経高は、この城の麓に館を構えて住んでいたと思われます。「間所」という地名も、おそらく政所、つまり政ごとの中心地だったという意味でしょう。
吉川経高は、領主として、ここに6年間住んで86歳で亡くなりました。


館の周囲には、今もそうですが、当時も水田がたくさん並んでいました。
領主の田を門田(かどた)といいます。門田は一番日当たりも、水あたりもよい土地で、米もたくさん採れました。

大正時代のことですが、この近くで、大変に古い田植え唄集『田植草紙』が見つかり、大発見と言われました。現在、その現物は行方不明になってしまいましたが、歌詞だけは書き写されて『新日本古典文学大系 62巻』に載っています。
その中に、門田の歌が出てきます。おそらくこの歌に歌われた門田というのが、吉川氏の支配していた田のことでしょう。

長者とのゝ かど田のいねはな
かれどもへらばやかど田のいねはな

歌の意味は、
門田の稲は、刈っても刈っても減りそうもないほどたわわに実っている
と、領主の田をほめあげたものです。

 

枝の宮八幡神社にやってきました。先ほどの駿河丸城から真西の方向へ直線距離で1kmの所にあります。ここは大変に古い神社です。一説によりますと、吉川経高が駿河国から勧請して建てたといわれています。本殿は、広島県の重要文化財の指定を受けています。

枝の宮八幡神社 
枝の宮八幡神社本殿<県指定重要文化財>

吉川経高自身が書いた「吉川経高譲状」と呼ばれる古文書に、次のような内容が残されています。

ゆつりわたす あきのくに をわさのほんしょう えたむらのうち をゝつか めかはらをハ わうくまにゆつりたひ候ぬ
よのこともたさまたけあるへからす
ひんかしハ 江たのミやのはゝすへのわたせをかきる
ミなミハ たかのすのミね いわつきへつゝきたるミねをかきる
にしハ いちきをかきる
きたハ いちきミさか かんひきのこしをふんにかきる のちのせうもんのために ゆつりしやうかくのことし

元應元年 十月三日
きんかはの二郎入道一心(花押)」

出典:東京大学資料編纂所編『大日本古文書 家わけ九ノ二 吉川家文書之二』 、(財)東京大学出版会、1926年、206頁

元応元年10月3日の日付が見えます。元応元年は1319年ですから、経高が86歳で亡くなった年です。経高は10月26日に亡くなっていますから、これを書いてからまもなく亡くなったわけです。もしかしたら経高の絶筆かもしれません。
ここに、「えだの宮」という言葉が出てきます。これは地名だけでなく、おそらくここに神社があったことを示しています。そのことからも、ここは相当に古い神社で、経高自身が勧請したかどうかははっきりしませんが、経高と何らかの強いかかわりがある神社であることは間違いありません。


新庄の足谷にきました。ここに吉川経高の墓があります。大変に立派な墓所です。
樹齢は数百年でしょうか、墓印として大変に大きな杉の木が立っています。

経高墓所


墓の前にある江戸時代に建てられた石碑には「経高入道一心」と彫られていますが、「一心」というのは、経高の法名です。ただし、本当にここが経高の墓なのかどうか確証はありません。経高は大朝に来て6年間を過ごしたわけですから、墓だけが、離れた新庄の地にあるというのも少し不思議な話です。もしかしたら、吉川家の城が大朝駿河丸城から新庄小倉山城へ移った時に、経高の墓もここに移動されたのかもしれません。


今回は、吉川氏と北広島町の歴史の第一回目でした。
80歳で大朝に来て、安芸吉川の基を作った人、吉川経高を中心に歴史を考えてみました。

 


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