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きたひろエコ・ミュージアム 令和3年9月

印刷用ページを表示する更新日:2021年10月12日更新

吉川家と北広島町の歴史(第2回)  吉川興経

今回の主人公は吉川興経(1518?~1550)です。前回の吉川経高の時代から200年くらい経った時代です。
吉川興経は吉川家の第14代当主、大朝に来た経高から言いますと10代目になります。藤原家の流れを汲む吉川家の最後の当主です。
吉川興経の肖像画も残っていないので、描いてもらいました。吉川興経は、勇猛果敢な武将だったと言います。
興経の亡くなった年齢には諸説ありますが、最近では32歳説が有力なのでそれくらいに描いてもらいました。

吉川興経吉川家地図
吉川興経(想像図) (絵:入澤良枝)            中国地方勢力図

吉川家と毛利家は、時には敵であり、時には味方であり、またライバルでもあり、親戚関係でもあるという、大変にややこしい関係です。
というのも、その頃の中国地方は、山陰に尼子氏という巨大な勢力があり、一方西の山口にはこれまた強力な大内氏がいました。その二つの大きな勢力に挟まれる形で、広島県内には大小たくさんの武士団がいました。
ですから毛利も吉川も、尼子側に付いたり、大内側に付いたりしました。そのために吉川家と毛利家は時には敵対し、時には力を合わせて生き延びていました。

吉川興経 地図2
 出典:国土地理院ウェブサイト
※この地図は、国土地理院発行の電子地形図(タイル)を複製した物である。

これは当時のここら辺りの勢力図です。
ここに出てくる山県というのは、今の山県郡とは違います。この山県というのは今の千代田地域の今田・有田・春木・有間・寺原くらいの範囲を差します。
この山県地域を狙っていたのが北から吉川氏。それから東から毛利氏です。
そんな折、天文15年(1546)、吉川家の中で謀反、つまりクーデターが起きます。吉川家の重要な家臣の吉川経世一族が吉川興経を裏切り、毛利方に付いて与谷城に立てこもります。
クーデター側は、毛利の勢力を背景にして吉川興経に反旗を翻し、「興経が火野山城を出ること」「興経が吉川家当主を引退すること」「興経の跡継ぎは、毛利家から元春を養子として迎え入れること」などを要求します。
吉川興経は、毛利との全面戦争になるのはなるべく避けたいので何とか話し合いで解決しようとします。興経は、クーデターが起きてから4年近くも、火野山城に居続けますが、山口から大内軍が毛利の援軍にくると聞き、吉川家当主を引退すること、火野山を出て毛利領内に隠居することを決心し、自分の子どもの千法師は将来、元春に女の子が出来たら結婚させることを条件にして受け入れます。

吉川興経起請文
       『吉川興経起請文』
その時に興経が毛利方に出した自筆の手紙があります。
これは、『戦国の庭歴史館』に展示してある「吉川興経起請文」とよばれているものです。
起請文というのは、絶対に約束を守りますと誓った誓約書のことです。起請文は、熊野神宮が発行した、熊野牛王符(くまのごおうふ)と呼ばれる、カラスの絵の版画してある紙が一番信用おけるものとされました。これはわざわざその熊野牛王符に書かれています。
ここにどんなことが書かれているかといいますと、
「この度元春との家督相続の契約が成立しましたら、私は御領地(毛利領)へ引っ越します。また、子どもの千法師のこと大切にして頂けると聞き安心しました。今後は、毛利元就、吉川元春、毛利隆元殿に対し、決して裏切ることはありません。このことは天地神明に誓って嘘ではありません。」

こうして吉川興経は、自分と自分の子の千法師の命の保証、それから将来、千法師が再び吉川家の当主になることを信じて引退します。
興経が引退した毛利領は北広島町ではありません。広島市安佐北区の芸備線沿いにある上深川というところです。

上深川

安佐北区の上深川にやってきました。
興経のいた新庄の火野山城からだと真南の方向になります、直線距離にして約30kmですが、新庄からは、途中にたくさんの山や川によって隔てられているので、実際の距離以上に遠い所に感じられたでしょう。
ここは、中央を三篠川が流れています。両側は高い山に遮られていますから、簡単にここから脱出することはできません。
興経は、この場所に、少人数の家来を連れ、自分の子の千法師と一緒に隠居して移り住みます。隠居といっても、自由に動き回れるわけではなく、実際は軟禁状態でした。
それでも、興経はまさか自分が殺されることになるとは思っていなかったと思います。自分さえ我慢すれば、毛利も約束を守って、やがては自分の子ども千法師が吉川家の当主になると信じていたと思います。
しかし毛利元就は、約束を守るつもりはありませんでした。興経と千法師を活かしておくと、将来、禍になると思った元就は、興経の暗殺を指示します。

吉川興経 墓所
     吉川興経墓所(上深川)
この写真が吉川興経の墓所です。おそらく、興経たちが軟禁されていた屋敷跡でもあったのでしょう。興経がここ上深川に来て1年ほどした時のことです。天文19年(1550)9月27日の早朝、毛利元就の命を受けた熊谷信直、天野隆重などの刺客がここにいた吉川興経館を襲います。
そこらあたりのことは、正式の歴史の資料にはほとんど残っていません。おそらく毛利側にとっても、約束を破って興経を殺害したというのは都合の悪い話なので、残さなかったものと思われます。
ただ『陰徳記』と呼ばれる。ずっと後になって書かれた本の中に出てきます。この通りだったかどうかは分かりませんが、ちょっと読んでみます。

(『陰徳記』 意訳)
吉川興経の家臣村竹宗蔵、密に弓の弦を切れるようにし、興経の愛刀「青江(狐ヶ崎)」の刃を引いておいた。天文19年(1550)年9月27日早暁、熊谷信直と天野隆重率いる三百餘騎は深川の興経館を奇襲する。興経は怪力、豪の者にてたちまち何人かを切り伏せた。そこへ後ろから村竹の放たれた矢が興経の腰から下腹に突き刺さる。抜こうとしても抜けない。後ろへは抜けない前へ押し抜け…(略)…そこへ杉原太郎左衛門が切りかかり、興経と切り結んでいるところへ、天野隆重が興経を組み伏せる。上へ下と戦っているところを隆重の中間与助が興経を刀で刺す。天野隆重と与助が興経の首を切ろうとしていると、熊谷の家来の末田民部左衛門(みんぶざえもん)が二人を押しのけて興経の首を描き切り「日頃鬼神のように恐怖しける興経の首をば、熊谷が郎党末田民部左衛門討ち取りたり」と呼ばわる。

千法師 墓
         千法師墓所
この時に、興経が将来を託した息子の千法師も、(当時おそらく5・6歳だったと思われます)いったんは家来と共に逃げますが、すぐに追いつかれて殺されてしまいます。その千法師の墓もこの近くにあります。
現在これらの墓は、事件から470年たった今でも、地元の人によって大切に守られ、無念の思いの中に死んでいった吉川興経とその子の千法師の霊を慰めておられます。

浄泉寺跡
      吉川興経墓所(千代田)
ところで、吉川興経の墓はもう一つあります。千代田地域の火野山城の麓にある浄泉寺跡と呼ばれる所です。
おそらく上深川が終焉の地で、ここに葬られた後に、千代田に移されたのだろうと思います。首だけが移されたともいわれています。

吉川興経 墓所2
       興経ともう一つの墓
これが千代田の吉川興経の墓所です。よく見ると、興経の墓の上にもう一つ小さな墓があります。この墓が誰の墓かは分かりません。一説によりますと、興経は大変に犬をかわいがっていたようで、その犬が興経の首を咥えて深川から火野山城まで帰ろうとしたのですが、ここで力尽きて倒れたと。その時に首が下に転がった、そのために犬の墓が上にあって、その下に興経の墓が出来たというものですが、お話としては面白いのですが、実際にはちょっと考えにくいかなと思います。

今回の街道をゆくは、波乱に満ちた人生をおくった悲劇の主人公吉川興経を中心にお送りしました。吉川家は、興経の代で静岡から来た正統派の吉川の血筋は絶えてしまい、ここからは毛利系の吉川の歴史が始まります。この続きはまた次回にお送りします。


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