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きたひろエコ・ミュージアム 令和3年12月

印刷用ページを表示する更新日:2022年1月5日更新

吉川家と北広島町の歴史(第3回)  吉川元春

(吉川元春の肖像画)
今回は、吉川興経が暗殺された後、毛利家から養子として入り、吉川家を再興した吉川元春です。
吉川元春の肖像画は、今日二枚残っています。

元春 肖像画1 元春 肖像画2
どちらも東京大学史料編纂所所蔵模写図から改変
左のものは元春が亡くなってまもなく描かれたもので、武士の姿をして髭を生やした精悍な顔立ちです。
右のものはずっと後の江戸時代になって描かれたもので、衣冠束帯(いかんそくたい)といわれる公家の正装をしたものです。ややふっくらとした顔立ちです。
二つの肖像画を見比べてみますと、あまり似ていません。いったいどちらが本当の元春に近いのか分かりません。
ただ吉川元春という人は、大変に武勇の誉れの高い武士です。一説によりますと、生涯76戦して64勝12分けで、一度も負けなかったと言われています。その真偽はともかく、戦上手だったことは間違いないようです。
鉄砲もかなり早い段階で戦いに取り入れていました。
永禄12年(1569)に、筑前国立花城合戦の時に吉川元春の鉄砲隊が倒した敵の数を表す文書(大日本古文書 家わけ九之一 五一三、筑前国立花城合戦敵討伏人数注文)が残っていますが、この戦いは織田信長が鉄炮を使って武田騎馬隊に勝利したことで有名な『長篠の合戦』よりも6年も前のことです。
そういうふうに考えますと、右のふっくらとした公家姿の元春よりも、左のりりしい武士姿の方が本人により近いのかなと思います。

(龍山八幡神社にて)

龍山八幡神社1
出典:北広島町ホームページ
さて、今回は、大朝地域新庄にある龍山八幡神社からスタートしました。この神社は、吉川氏の氏神です。駿河から勧請して建てられました。
現在の建物は永禄元年(1558)、吉川元春によって再建されました。本殿は「三間社流れ造り」と呼ばれるもので、神社としては、広島県内では厳島神社に次ぐ古い建物といわれています。現在、この本殿は国の重要文化財に指定されています。
この建物が永禄元年(1558)に再建されたことを示す証拠があります。

龍山八幡神社 内部
普段は見せてもらうことはできないのですが、今回特別にお願いして内陣に入らせてもらいました。ここの内陣の柱に墨書が残っています。
右には「此宮永禄元年戊午歳建申候珎融(花押)」(このみや えいろくがんねん つちのえうまのとし たてもうしそうろう ちんゆう)と書かれています。
「珎融」というはお坊さんのような名前です。当時は神仏習合(しんぶつしゅうごう)といって、神様も仏様も一緒ですから、おそらく「珎融」というのはお坊さんで、かつこの龍山八幡神社の社人の一人でもあり、八幡神社再建の責任者だった人だろうと思われます。この墨書からも、この神社が永禄元年(1558)年に建てられたことが分かります。

龍山八幡神社 内部2
柱の横の板にも墨書がありました。この墨書は、これまであまり知られていなかったもので、今回初めて見ました。「於當社七十五ヶ日夜参籠励行之 奉修八幡御本地秘法一千座第三度成就 永禄貮年卯月二日 権律師珎融」と書かれています。珎融が、この神社が再建された翌年に75日間立て籠もり、秘法をもって御神体に生命を吹き込んだということでしょう。

(吉川元春館跡にて)

吉川元春 館跡1
豊平地域海応寺にある吉川元春館跡に来ました。ここに、実に立派な石垣があります。この石垣を含む一帯は、国の史跡に指定されています。
石垣の高さは、約3.2m。幅は、約70mあります。非常に豪快なつくりなのに圧倒されます。この石垣には大きな特徴があります。

吉川元春 館跡2
出典:『いぶき 中世のひろしま』 No.7  広島県教育委員会

鏡石(A)と呼ばれる大きな石の広い面を前に出して、それを大体、等間隔に縦に並べていきます。その縦に並べられた大きな石と石との間に、石を横(B)にして積んでいます。
さらに、表面からは全く見えないのですが、実は裏側の土の中にも石が築いてあります。そのために、大変に丈夫で崩れにくい構造になっています。この石垣が造られてから、400年以上経ちますが、まさにびくともしない丈夫なつくりになっています。

館跡 石垣1 館跡 石垣2
出典:『いぶき 中世のひろしま』 No.24  広島県教育委員会
左:万徳院跡の石垣を裏側から見たところ  右:吉川元春館跡の石垣を裏側から見たところ

この独特の石垣の築き方は、その当時ここらあたりにいた「石築きの者共」と呼ばれた、高度な技術を持つ石垣づくりの専門集団によって築かれたものです。
これと全く同じ方法で作られた石垣は、北広島町内で数か所見つかっています。

厳島神社 石垣
協力:厳島神社
厳島神社の裏手にもこれと同じ造りの石垣を見ることができます。
この厳島の石垣工事については、その当時書かれた文書(大日本古文書 家わけ九 別集 六七四 吉川広家自筆書状)も残っています。
そこには、
今年中(天正一九年 1591)に、「厳島神社の石垣」を完成させようとしていたが、「石つきのもの共」より、寒中に突貫工事をさせられることに不平が出たので、来年に延ばしたい。
と書かれています。ここから「石築きの者共」と呼ばれた石垣づくりの専門集団が、寒い時の工事を拒否したことが分かります。当時の権力者に対して、職人たちが堂々と拒否しているこの資料は大変に面白いものと思います。

館跡 ジオラマ
これは、戦国の庭歴史館に展示してある、この館周辺のジオラマです。
ご覧のように大変に広大な土地に、たくさんの建物群が並んでいました。
ただ、これだけ立派な建物群ですが、元春がこの建物を作り始めたのは、隠居した年の天正11年(1583)と言われています。おそらくこれほどの建物群ですから、完成には2年も3年もかかったでしょう。完成したのは、天正13年か14年でしょう。
しかし、天正19年(1591)には、豊臣秀吉の命令によって、元春の子どもの吉川広家の時代に、この地から島根県の広瀬町にある月山富田城に移ります。
ということは、この立派な建物群が、実際に使用されたのは、わずか7~8年の短い期間だったことになります。
今日の主人公、吉川元春に至っては、天正14年(1586)に亡くなっていますから、この吉川元春館と名付けられた隠居用の建物も、実は元春自身がここで生活したのはわずか1年かそこらでした。

(吉川墓所にて)

吉川墓所
吉川元春館跡の奥に大きな墓所があります。
ここには、三人の墓が並んでいます。中央にあるのが、吉川元春の墓です。左側にあるのは元春の長男の元長の墓です。もう一つ右側に小さい墓がありますが、幼くして亡くなった元春の四男松寿丸(しょうじゅまる)の墓と言われています。
吉川元春は天正14年(1586)豊臣秀吉から九州攻撃のために出陣するように言われます。その時元春は、すでに引退していましたし、癰(よう)と呼ばれる腫物ができる重い病気にかかっていました。そのため九州出兵を辞退します。
しかし秀吉から、軍師の黒田官兵衛を通して、「元春にどうしても九州に出陣してほしい」と再三にわたって催促されます。これ以上断れば、本家の毛利家にも迷惑がかかると思った元春は重い病を押して出陣し、北九州の小倉城に入ります。

『陰徳太平記』に元春最期の様子が書かれています。現代語に訳したものです。

黒田官兵衛が元春を招き、珍しい鮭料理で饗応してくれた。
鮭は熱を発生すると言われているので、これを食べると血流がよくなりすぎて、血管を破る恐れがあった。
しかし元春は、官兵衛がこの鮭をわざわざ準備して宴を開いてくれたのだから、病に悪いからと言って食べないのは、黒田官兵衛に対して配慮の欠いた行いになると思われて、少しばかり口にされた。

鮭を食べたことが原因かどうかは分かりませんが、その後元春の病気は急に悪化し、まもなく小倉城で息を引き取ります。享年56歳でした。
この話から、元春という人は勇猛で豪快なイメージの人ですが、細かい気配りのできる人でもあったことが分かります。

太平記
岩国 吉川資料館 蔵
また、これをご覧ください。元春という人は、ただ武勇に優れていただけでなく、文武両道、つまり学問の方も大変に優れた人でした。南北朝期の争乱を描いた軍記物語に『太平記』という古典がありますが、元春は戦場にそれを持参して愛読し、ただ読むだけでなくそれを筆写していました。『太平記』全40巻を筆写したものがほぼ完全に残っていて、現在、国の重要文化財になっています。
今日、私たちが「太平記」を読むことが出来るのは、実は吉川元春のおかげでもあるのです。

 


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