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きたひろエコ・ミュージアム 令和3年3月

印刷用ページを表示する更新日:2022年4月8日更新

吉川家と北広島町の歴史(第4回)  吉川広家

吉川広家
   東京大学史料編纂所所蔵より改変

(吉川広家)
今回取り上げるのは、吉川広家です。吉川広家は、吉川元春の子どもです。兄の元長が早く亡くなったので、吉川家の当主となります。
吉川広家の肖像画は今日一枚だけ残っています。
吉川広家は、江戸時代の寛永2年(1625年)に64歳で亡くなっていますから、これはまだ若い頃の肖像画のようです。衣冠束帯(いかんそくたい)を付けた公家の恰好をしています。

若い頃の吉川広家は、結構「やんちゃ」というのか、生活態度があまりよくなかったようで、親の元春をずいぶん心配させていました。
元春が、広家の身だしなみや生活態度について注意した手紙が残っています。現代文に訳したものを紹介します。

いつもふざけ半分のように言っていることですが、まず身なりを整えなさい。これから言うことは、気に食わないと思いますが申し上げておきます
とにかく額を剃りなさい。剃らないのが流行なのかもしれませんが、それは似合う人と似合わない人がいます。額を剃って髭をつければ、一段と立派に見えるものです。今のようにな恰好では、まるで商人か、物乞い僧か、恵比寿舞芸人のようです。
どうしてそんな恰好をするのか理解に苦しみます。そんな恰好をすれば、みんなは立派な人だと言うでしょうか。そうは言わないと思う。(略)どうか親孝行だと思って、身なりを整えることを心がけてください。

(大日本古文書 家わけ九之二 吉川家文書 1231)

この手紙を読むと、子供を育てる苦労、子供の行く末を心配する気持ちというのは、昔の親も今の親も変わらないものだなと思います。

万徳院 石垣
(万徳院石垣前にて)

万徳院跡地に来ました。ここの石垣を見てください。この石垣も、前回、吉川元春館跡で紹介した「石築きのもの共」といわれた石垣造りの専門集団によって作られたものです。独特の築き方がされています。前回も言いましたが、鏡石と呼ばれる大きな石の広い面を前に出して、それを大体、等間隔に縦に並べていきます。その縦に並べられた石と石との間に、石を横にして積んでいます。
石垣の上は万徳院という名前のお寺跡で、元々は吉川広家の兄の吉川元長が自分専用の寺として作ったものです。吉川元長は別荘としても使用していました。
ところが、吉川元長は九州で亡くなります。元長に子供がいなかったために、今日の主人公、弟の広家が当主になります。広家は、元長亡き後、この万徳院の建物を元長供養のための寺として整備します。

風呂場

(風呂場)
万徳院跡地に風呂場が復元されています。風呂場といっても、お湯に浸かる風呂ではなく、今でいうサウナ風呂です。中には大人が4人ほど入られる大きさがあります。
裸で入るのではなく、浴衣のようなものを着て入ります。外からお湯を沸かし、その熱い水蒸気で体を温めます。汚れを落とすというより、ケガや病気の治療が目的だったと思われます。

陽光院墓所 陽光院(入澤良枝 画)
(容光院墓所にて)
この万徳院の近くに吉川広家の妻、容光院の墓があります。
容光院の肖像画は残っていませんのでイメージ図を描いてもらいました。
容光院は16歳か17歳の若さで吉川広家夫人になりますが、広家に嫁いできて、間もなく20歳かそこらの若さで亡くなります。
今はこうしてほとんど人が訪れることもない寂しい墓地ですが、吉川広家と容光院の結婚は、その当時はまさに日本中で祝福された大変華やかな結婚式でした。

吉川広家・陽光院新居跡地
      戦国の庭歴史館 展示物

(吉川元春館跡 吉川広家・容光院新居跡地)
吉川元春館跡の一角に、吉川広家と容光院の新居がありました。この建物が、新婦容光院を迎えるために建てられた新居です。広い敷地の一角に、大変に立派な建物が建てられています。

吉川広家は、豊臣秀吉からずいぶん目を掛けられていたようで、容光院というのは、豊富秀吉の娘です。と言いましても、秀吉に実子はいませんので、備前岡山の大名、宇喜田秀家の姉をいったん秀吉の養女として、それから吉川広家に嫁がせます。
ここらあたりのことは、『陰徳記』という本に大変詳しく書かれています。
現代文に直したもの読んでみます。


関白秀吉公は「わしの養女に婿をとった。何と嬉しいことだ」とおっしゃって、聚楽第で馬廻りの老臣を皆呼び集めて盃を下された。あとは酒宴となり舞や謡を楽しみ、秀吉公自身も、三度も扇をかざして舞われた。その後、「この秀吉が初めて婿を取ったが、これほど嬉しいものとは思わなんだ。わしを大事に思うてくれる者も、きっと喜んでいるだろう」とおっしゃったのを聞きつけて、徳川家康・前田利家・上杉景勝が先を争って芸州の新庄に使者を遣わし、吉川広家の結婚を祝した。佐竹・細川・島津・大友などをはじめとして、世に知られる大名・小名もこぞって芸州に使者を送ったので、人もすれ違えないほどに道が混み合って、新庄の山中も花の都大路さながらであった。
(陰徳記より意訳)

養女とはいえ、天下人の太閤秀吉の娘を娶ったわけですから、それは大変な結婚式だったようです。花嫁には、黒田官兵衛が付き添いとしてやってきました。
さらに、全国の大名からお祝いの品々がこの地に運び込まれます。
しかし、二人の幸せな新婚生活は永く続きませんでした。容光院はこちらに来てまもなく病気になります。
京都から、当時日本一の名医と言われた曲直瀬道三が派遣されて治療にあたりますが、その甲斐もなく亡くなってしまい、先ほどの墓所に埋葬されます。広家も大変に悲しみ、その後再婚はしなかったと言われます。

犬の人形
       戦国の庭歴史館 展示物
これは二人の新居跡から出て来た犬の人形です。歴史館に展示してあります。犬の人形は昔から安産のお守りと言われています。犬の人形が出てきたということは、もしかしたら容光院は妊娠していたのかもしれません。
容光院が亡くなってまもなく、吉川広家は、豊臣秀吉の命により、ここ海応寺の地から、島根県広瀬にある月山富田城に移ります。

月山富田城
      写真提供:安来市観光協会

(月山富田城)
これが島根県安来市にある月山富城の写真です。
かつては、尼子氏が支配していた城です。天然の地形を利用した、難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていました。
広家はこの城の主になります。しかし、こちらに来て間もなく、秀吉の命令で、朝鮮半島を攻めることになります。いわゆる「文禄・慶長の役」です。吉川広家も、この城から朝鮮に渡り、闘いに明け暮れることになります。

名護屋城下図
  佐賀県立名護屋博物館所蔵 佐賀県重要文化財

(文禄・慶長の役 関係図)
これは、文禄・慶長の役の時に日本軍の出発港だった名護屋城下の図です。名護屋といっても、愛知県の名古屋ではありません。佐賀県の名護屋です。
当時の名護屋城は、大阪城に次ぐ大きさと言われていました。ここへは全国各地からたくさんの武将やたくさんの物資が集まって大変に賑わっています。今から朝鮮半島に渡ろうとする緊迫感とあわただしい様子が伝わってきます。吉川広家も、こうして出陣していったものと思われます。

婆羅の馬印
 龍山八幡神社 蔵  北広島町図書館展示物

(北広島町図書館にて)
北広島町図書館に、吉川広家がこの文禄・慶長の役で使ったと言われる『婆々羅の馬印』が展示してあります。別名『芭連』とも言われるものです。
これがその芭連です。本物もここに大切に保存してあるようですが、これは展示用のレプリカです。
芭連というのは、戦場において大将の側に常に置くものです。どの大将がどこにいるか一目で分かるとともに、味方を鼓舞し、敵を威圧するためのものです。
この芭連は、朝鮮で一緒に戦った加藤清正から吉川広家に贈られたものです。これについては、『陰徳太平記』に次のような話が残っています。

蔚山の戦いのときに、加藤清正は城に追い詰められて、絶体絶命のピンチになりました。その時に、命がけで助けに来てくれたのが吉川広家だったようで、そのことを感謝した加藤清正から、「吉川殿は命の恩人だ。ただ、吉川氏の馬印は遠くからだと分かりにくい。そこで自分と同じ馬印にして、色だけを変えたらどうか」と提案し、同じデザインの馬印で、加藤清正は白色を使い、吉川広家には赤色のものを贈ります。広家はそれ以後その馬印を使い戦争後も大切に日本に持ち帰りました。
(陰徳太平記より意訳)


それが、どうしてこの龍山神社にあるのかというと、明治6年(1873)になって、岩国の吉川家から龍山神社に贈られたようで、以来、龍山神社の宝物として今日まで伝えられてきました。
今回特別に。本物の芭連も公開していただきました。
ただ、本当にこれが加藤清正公から譲られた実物なのかどうかは定かではありません。

 

(関ヶ原)
文禄・慶長の役が終わりますと、やがて天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こります。
吉川広家は西軍でしたが、実は密かに徳川家康と内通していて、東軍勝利のための大切な役割を果たします。さらに潰されそうになった本家の毛利家の存続にも尽力して、毛利家をピンチから救ったと言われています。
そこらあたりのことは、たびたび小説やドラマの題材にも取り上げられる話で面白いのですが、北広島町との関りは薄いので省かせていただきます。

今回で、四回シリーズでお伝えした「吉川家と北広島町」を終えますが、このシリーズでは、今回の吉川広家がいちばん苦労しました。
というのは、これまで紹介してきた、吉川経高、吉川興経、吉川元春は、いずれも北広島町内に自分の城があり、本人の墓も北広島町内にあり、主な戦場というのもだいたい町内かこの近辺でした。
しかし、吉川広家の代になりますと、急に行動範囲が広くなります。

岩国城

城も、最初は火の山城でしたが、すぐに島根県広瀬にある月山富田城に変わります。さらに関ケ原後は山口県岩国に城を作ります。

吉川広家が戦った主な戦場も、朝鮮半島であったり、関ケ原であったりと大きく広がります。
また吉川広家の墓も、北広島町にはありません。岩国にあります。

吉川広家 墓所 洞泉寺跡 看板
これが吉川広家の墓です。(吉川広家の墓)岩国にある、洞泉寺(とうせんじ)というお寺の敷地内にあります。
この洞泉寺という寺は、元々は北広島町の岩戸にあったもので、それは1603年に岩戸から岩国に移されました。
現在岩戸には、洞仙寺のあった所に跡だけが残っています。ただ、どういうわけか「せん」の字が、今は「泉」を使っていますが、岩戸にあったころは「仙人の仙」を使っていたみたいです。

そのようなことで北広島町内には、吉川広家の足跡というのは、あまり多く残っていなくて番組作りに苦労しました。

いずれにしても、正和2年(1313)に吉川経高が大朝に来てから、天正19年(1591)に吉川広家が月山富田城に移るまで13代、278年間、この北広島町の地に戦国武将吉川氏が在籍して、地域は深くかかわり、日本の歴史に大きな足跡を残しました。
また吉川氏がこれだけの力を持つようになった基盤には、この地に住む民衆が、農業だけでなく、例えば「製鉄」や、「石垣職人」や、建物を作り上げた番匠と呼ばれる大工や、物を売り買いする商人たちの幅広い経済活動があったからこそできたことです。

 


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