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花田植はいつ始まったか

印刷用ページを表示する更新日:2018年4月1日更新

花田植の歴史

田植の風景1  花田植がいつから始まったか、厳密な記録は残っていません。
 北広島町域では、田植の際の演奏を「田囃」と呼ぶことが多く、「田楽」という言い方はあまり古いものではありません。しかしこの「田楽」という名称は平安時代の物語や絵巻に登場しており、描かれる姿は田囃と似ています。
 中国地方の例では、室町時代に描かれた大山寺縁起絵巻の中に田植をする情景が見られます。また、同じ絵巻には、これとは少し違い、田楽師・田楽法師などと呼ばれた職業的な芸能者によるものと思われる絵も見られます。
 歌の研究の上では、北広島町の大朝地域で発見された「田植草紙」という歌本の中のいくつかの歌が、使われている言葉などから中世(室町時代)に成立したものではないかと推測されています。
 時代が下って江戸時代になると、庄屋や学者の文書の中に、「大田植」の姿が記されています。これは現在の花田植に近いものですが、今よりさらに規模が大きく、時間も丸一日かけての行事であったようです。
 大田植は江戸時代末から明治時代にかけて盛んに行われましたが、明治・大正期の農業の変革期に、米を効率よくたくさん作ることが重視されたため、多くの地域で廃れます。これが昭和初期の郷土芸能再興の時期に商工会により復興され、戦争による中止を経ながら戦後にふたたび復活、文化財指定の動きとともに現在に至っています。
 昭和時代の田植では、枠を目印にする「枠植え」が多く行われていましたが、花田植ではより古い形の「綱植え」をしています。これは、大田植が一時廃れた時期の方法であることから、中止される以前の姿で再開されたものと考えられます。

田楽・花田植の歴史